天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

霊界の真の姿

▶︎地上もいかなる天才的画家も、霊の世界の壮大で美しい眺めを絵の具で描き出すことはできません。いかなる天才的音楽家も、その音楽の素晴らしさを音符で表現することはできません。いかなる名文家も、霊界の美の一端さえ地上の言語で書き表すことはできないのです。そのうちあなた方も、こちらの世界へ来られます。そしてそのすべてに驚嘆なさることでしょう。その時あなた方は、真の意味で霊界を知ることになるのです。

(シルバーバーチの教え・上/第十一章 死後の世界P 186より)



人間は今に至るまで、幸福を必死になって追い求めて来た。宗教、哲学、科学、各学問、あるいは芸術、教育などの各分野に亘ってそれぞれの叡智を結集して、より住み良い世界、平和な世界の実現を企図してきたのである。

だが、今の今まで、理想世界が実現したなどと喝破できる人間が現れた試しはない。

この小論を読んでいるあなたも、今の生活が本当に心の底から幸福だ、と言える自信があるだろうか。


山のあなた

山のあなたの空遠く
さいはひ」住むと人のいふ。
ああ、われひとゝめゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
さいはひ」住むと人のいふ。

(カール・ブッセ/上田敏訳『海潮音』より)



このカール・ブッセのあまりにも有名な詩の中にも、「幸」を求めて彷徨う哀しい人間の姿がある。

果たして、誰もが求める幸福は、山のかなたの遠い世界に実現しているのであろうか?

戦争と争いに塗れ、貧困と飢餓、差別、憎しみ、嫉妬に苦しむ現実には、どこにも期待するものは存在しない。

そんな現実を目の当たりにして、まだ見ぬ遠い世界に期待をしても無理からぬことであろう。

しかし、そんな期待も虚しく、理想世界、ユートピアは、私たちの生きているこの世界には存在しない。


だが、そんな理想とする世界があなたのすぐ身近にあるとしたらどうか?

はるか昔、太古から流れてきた人類の歴史の中で実現できなかったユートピアがそんな近くにあったなんて?


夢ではない。でも夢よりももっと素晴らしい世界だ。そして我々の夢と希望がすべて叶う世界だ。

それが霊界なのである。


霊界は山のかなたにあるのではない。海のはるかかなたの太陽が昇るところにあるのでもない。

私たちのごく身近に、すぐ隣に存在しているという。


だが、今の私たちにそれを知るすべはない。霊界を実感するほどに霊感があれば話は別だが。

でも感じることはできなくとも、私たちの生きているこの物質世界と、重なるように存在しているということである。


そして、死ねば必ず私たちはそこに行くことができるし、行かざるを得ない。


では、死後にそのような世界に行くことができると知ったら、私たちの生き方はどうなるのであろうか?

すべての夢が実現する霊界に赴くことのできる一日を、今日か今日かと心待ちにして過ごすことになるのではなかろうか。


その一日を、喜びを持って迎えるために、霊界の真実の姿を説いている霊的真理を、ぜひ知ってもらいたいものである。

人生いかに生きるべきか


▶︎「世俗から離れた生活は心霊能力の開発には好都合で、その意味ではよいことと言えるでしょう。が、私の考えでは、世俗の中で生活しつつしかも世俗から超然とした生き方をする方がはるかに上です。つまり努力と忍耐と向上を通して自己を確立したのちに、大霊から授かった能力を同胞のために役立てるのが、より良い生き方なのです。」

(シルバーバーチの教え・下 十四章 霊界通信の難しさ P21)



人生いかに生きるべきかーこれほど重いテーマはあるまい。

歴史上、多くの宗教家、哲学者、思想家などが人生の意味を論じて来たが、最終的な結論を出すに至ってはいない。

人生には答えがないからいいのだという意見もあるだろう。また、どう生きるかなど考えず、時流に合わせて生きればそれでいい、という人もいることだろう。

だが、一度しかない人生、真剣に考え、悩み、自分としての結論を出してみるべきではなかろうか?


私は子どもの頃から、人として正しい生き方というものはどのようなものかということを一貫して追求して来た。そして小学校から中学校にかけての時期に、遂に自分の人生の理想像を見出した。


それが宮沢賢治の『雨ニモマケズ』である。

その発見により、今に至るまでずっと宮沢賢治の哲学がずっと心の片隅に存在し続けた。


少し長いが、『雨ニモマケズ』を引用してみたい。


雨ニモマケズ

風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無行菩薩

末尾の7行にあるように、宮沢賢治は法華経の行者である。私は芸術と信仰と奉仕に一生を捧げた稀有の魂に、幼いながらも尊敬の念を持ったものである。

しかし、『雨ニモマケズ』のような純粋で一途な無我の境地に至ることは並大抵ではない。飽くまで一つの理想としての憧れであった。


先程述べたように、その後も、私の心のどこかにこの詩はあり続け、陰に陽に私の生に影響を与え続けた。家庭連合(旧統一教会)の信仰を棄教することができたのも、自分でも気づかないうちに、家庭連合の信仰原理以上に、この詩の世界観が魂に染み付いていたからではなかろうか?

少なくとも、この詩にある究極にまで自らを謙遜して他のために尽くす生き方は、家庭連合の主要な幹部の本当の姿とは180°異なっていると言える。


徹底的な無我の境地の奉仕ースピチュアリズムでは、本当の宗教とは利他愛の実践にあると言うが、まさしくその最も純粋な形がここにある。


私はよく登山(と言っても山歩きというのが正解かも知れない)をするが、九州には、修験の山が多い。修験と言うと、山の中に籠って荒行を行い、俗世と一線を画した生活をするいった印象が強い。

が、本当の修験とは、厳しい修行で得たものを民間で実践することにあると言う。山中での行に集中して、悪く言えば自己満足のみに終始するだけでなく、衆生の間に下りて施行しなくてはいけない。

冒頭のシルバーバーチの言葉と一致する。


このようなストイックな生き方というのは、今の時代、旧態依然とした遺物なのかもしれない。

しかし、シルバーバーチは、何を信じているかが問題ではなく、どう行動するかが問題だと言う。

決して華やかではないが、修道の生活をして自己を確立した後に、大霊の資質を顕現すべく、人のお役に立つ生き方もいいものではないか。


このような生き方が本当に人として正しい生き方かどうかは、死後の世界、つまりは霊界があるかどうかによっても決まって来る。もし霊界などないのであれば、利己的で刹那的な生き方をしても、誰にも文句を言われる筋合いはない。

しかし、本当に霊界があるのであれば・・・・・

いい加減に生きることなどできなくなってしまう。


次回はこの霊界について考えてみたい。

私がスピリチュアリストになった訳

「天の時、地の利、人の和」とは、「天(天候)による好機も土地の有利な条件には及ばない。また、土地の有利な条件も人々の強いつながりには及ばない」という意味を持つ慣用句です。

            「コトバの意味辞典」から


はじめまして。あの悪名高き旧統一教会(現家庭連合)を退会して1年、真のスピリチュアリストに成ろうとしている者です。


三十数年統一教会を信仰して来て、何故にやめて、まったく新しい信仰、スピリチュアリズムを始めるようになったのか?

宗教に関心のない人には、ほとんど関係のないような内容だが、このブログを始めるに際し、ひとこと言わせて欲しい。


ひとことで言えば、私の良心が納得しなかったということだ。特に教理解説書と言われている『原理講論』と、「摂理」と呼ばれている組織上の指示の乖離である。

例えば、『原理講論』では、地上生活の目的として、一番はじめに「霊人体の成長と完成のため」(霊人体というのは、人間は大きく分けて霊と肉から成り立っており、そのうちの霊の体のこと)と謳っておきながら、実際には献金、伝道などの実績を最優先する、その体質である。

「いや、そんなことはない!」と信徒は反論するであろうが、建前としては確かに霊を中心にしているように見えるが、果たしてどれだけの信徒が「私は霊人体の成長のためにいつも努力して、実際これだけ成長しました!」と胸を張って言えるだろうか。


それを端的に表しているのが、「真の父母絶対主義」という言葉だ(真の父母というのは、教祖である文鮮明夫妻のこと)。真の父母の名の下にすべてが正当化されることだと言っていい。その真の父母の前では、個人の霊人体の成長などかすんでしまう。

いくら普段人のために尽くす生活をしていても、教祖夫妻の願う献金、伝道の実績(特に献金)を挙げることができなければ、立派な信徒とはみなされないのだ。

つまりは、教祖のためにどれだけのことをしたのか?その実績中心主義と言っていい。


これはスピリチュアリズムから見れば、物質中心主義に侵されている状態そのものだ。霊や心などの内的なものを主体にするという教義に反して、いつの間にかモノを中心にする価値観にすり替わっているではないか。


それ以外にも、家庭連合が物質中心主義に陥っている証拠はいろいろとあるが、これが私にはどうにも我慢がならなかった。

安倍元首相銃撃事件以前から、私はこの団体は既に死んでいる(?)と思っていた。


そんな時、以前家庭連合に所属されていて退会された方のブログで、スピリチュアリズムの存在を知ったのだが、当初はどこかの別の宗教団体に寝返った話か、くらいにしか見ていなかった。でも気になり、一応スピリチュアリズム普及会のホームページを読んでみた。

出だしは心霊現象やヒーリングの内容が多く、オカルトチックだなぁという感じだったが、読み進めていくと、霊界の説明が納得のいくものだったし、また人間は永遠に生きる霊界を見据えて、こう生きるべきだと明確に主張していた点に惹かれた。


そして何よりも、宗教団体という組織を作らず、献金もないということを知って、ますます興味が湧いた。

組織上の信仰を優先する宗教団体に嫌気がさしていたからである。


本来、信仰とは自由なものではなかろうか。組織の論理でもって、個人の信仰を束縛するのは本当の宗教ではない。人のために何かしようとすることは、誰かに言われなければできないことなのだろうか?


シルバーバーチの言葉を紹介する。


「私たちがこうして地上世界に戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです。」

『シルバーバーチの霊訓」P244



本当の宗教とは何なのか?ぜひ考えてもらいたいテーマである。