一つの宗教をやめるということ
▶︎宗教の教義(信条)による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかに酷い苦痛をもたらします。なぜならそれは「魂の病」を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。
地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、いまだに教義にしがみついています。なかには教義に縛られている方が気楽だと考える人もいます。「自由」とは、自由であることのありがたさを知った人のためのものです。ここに集っている皆さんは、教義の牢獄から脱したことを喜んでください。そして喜ぶだけでなく、今なお隷属状態にある人々を解放してあげるために努力してください。
▶︎誠に残念なことですが、”神の使徒”をもって任ずる教の聖職者たちには、一から学び直してもらわなければならないことがたくさんあります。彼らは不安定な砂の上に自分たちの宗教を築き上げました。その”砂上の楼閣”は、スピリチュアリズムの霊的真理の猛攻撃を受けて崩れかけようとしています。彼らは、それを必死に支えようとしているのです。
そもそも土台が間違っているのです。彼らは、イエスを作り話で塗り固めてきました。そうすることでイエスを神と同じ位に祭り上げたのですが、その根拠には何の正当性もないため、徐々にそれを撤回せざるをえなくなっています。ところが撤回しようとすると、彼らの心に恐怖が湧いてくるのです。「それを失ってしまったら、あとには何も残らない」との危惧を抱くのです。キリスト教が真実を土台としていたなら、すなわち自然の摂理の上に築き上げられた宗教であったなら、撤回しなければならないものは何ひとつなかったはずなのです。
(シルバーバーチの教え(新版・上) 八章 地上の宗教の間違い P124、127、128)
(シルバーバーチの霊訓の掲載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)
よく先輩スピリチュアリストの方から、「よくあの統一教会を出て来れたね!」と言われる。
そんなことはない、と自分では思うのだが、一つの宗教から抜けるというのは案外難しいのかもしれない。それは上記のシルバーバーチの言葉からもわかる。
以前、まだ統一教会員として頑張っていた頃、信仰歴が50年になるかという大先輩の方が離教した、とあるブログで拝見した。その時は、「そんなに長く信仰しながら、途中でやめてしまうのなら、始めから信仰なんかするな!」などと息巻いていたが、いざ自分がその立場に立ってみると、長年やってきて、ライフスタイルのようになった信仰をやめるのには、やはり勇気がいると思った(笑)。
なぜここまで長年信仰を持ち続けながら、やめようと決意したのか。
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」との論語の言葉。そういう思いで今までやってきた。もし、今やっている信仰が間違っているのなら、キッパリとやめる。未練はない。人間として、何より正しい道を歩いていこうと決断したのだから。
その点、旧統一教会としての信仰は、到底正しい道とは言い難かった。
信仰し始めの頃、何やら怪しげなマンションの一室に案内されたことがある。同期の教会員と一緒だったのだが、そこで別室で行われている展示会(印鑑や、壺、多宝塔などを授かるように、家系図などを使って、先生と呼ばれている霊能者(?)が、連れて来られたゲストを説得する話し合い)で、伝道しようとしているゲストのために、上司が熱い祈祷を捧げてくれと言う。
違和感ありありだった。中にはこのような方法で教会に伝道されて来る方もいるのであろうが、私は、真理を聞いてみませんか、と直接教義を聞いて、教会に来たので、こんなやり方で教会に来るということ自体が考えられなかった。
それも、高額の商品を購入するように祈れと言われ、なんでそれがその人の救いになるのか?どうにも得心がいかなかった。学生の立場の私としては、そんな高額な物の話は別世界の話のようだった。
だからその後も、上司からその展示会を通じて伝道するよう勧められたが、まったく人を連れていかなかった。教会員としては、ダメ教会員だったのだ。
その伝道方法、つまり霊感商法と言われるこのやり方は、上司から、すべて口外無用ということで極秘事項とされた。そして、なぜ高額の商品を購入することが救いにつながるのか、教義によって理屈づけされて説明され、心の中ではもやもやとしたものを感じながらも、「これは立派な救いの儀式なのだ」と自分に言い聞かせた。
だが、法的にも、道義的にも、これは犯罪ではないのか?という思いは心の中に常にあった。それは私だけでなく、教会員たちの皆の心の中にもあるのではないか。だからこのことを極秘としたのではないのか。
シルバーバーチは、理性で納得できないことは拒否しなさいと言っている。その当時、この霊感商法を拒否して、教会をやめた人もいるだろう。
だが、私はそのことを曖昧にしたままにして、何十年も信仰をして来てしまった。
洗脳の恐ろしさである。個人的に、洗脳という言葉はどうにも好きになれないが、反統一教会の連中がよく使うマインドコントロールという言葉でもいい。言葉はどうでもいいが、とにかく宗教の教義の魔力というか、魂を束縛する力である。
心が反乱の雄叫びを上げた時に、素直に従うべきである。余計な思いが湧き上がって来る前に。
一つの宗教をやめるのは、別に恐ろしいことではない。飽くまで、大霊の摂理は自力救済である。誰も救ってくれやしない。ましてや、メシヤは救ってくれもしないし、自分の人生に責任を持ってくれるわけではない。
私は地上人生のかなりの時間を間違った宗教に費やしてしまったが、早く気が付けば気がつくほどいい。死後、地縛霊になって苦しむ前に。
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