天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

霊的牢獄と物質的牢獄


▶︎本当なら教会の入り口には「我らが忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我らは信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれています。教会は真理に敵対する手段となっているのです。

私は、聖職者として神に仕えたいと真摯(しんし)に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることを、私はよく知っています。私が非難しているのは”組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。

(「シルバーバーチの教え」(新版・上)八章 地上の宗教の間違いより)


(シルバーバーチの霊訓の掲載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)


この記事をまさに書こうとしている時に、突然の訃報が飛び込んで来た。池田大作創価学会名誉会長が死去されたとのことである。この場を借りて、謹んでご冥福をお祈りいたします、と言うべきところであるが、霊界に行ってからのことを考えると、一刻も早く霊的覚醒をされて、高級霊たちとともに学会の信徒たちの救済に携わってもらいたいものである。


ともあれ、先日の幸福の科学の大川隆法総裁の死去のことも考えると、一時期隆盛を極めた新興宗教の時代は終わったのだと思わざるを得ない。


さて、前回予告していた通り、世にも稀な(?)私の体験、拉致監禁について書いていきたい。


前回綴ったように、私が旧統一教会の信仰を持ったのは、大学一年の時、街頭で見ず知らずの女性に声を掛けられたのがきっかけであった。

信仰を持って1年もすると、大学生での身分でわけのわからぬ寮に住み込んでいるということを両親は不審に思ったようだ。そんな時に私のカバンの中から文教祖夫妻の写真を発見したものだから、大騒ぎになった。


それまでは「市民大学講座」の勉強をしていると言ってやり過ごしていたのが、もう一切嘘がつけなくなった。正体を隠すことができなくなったのだ。


両親に家に連れ戻された。

それからというもの一切教会とは関係を持たないようにと強く言われた。だが、それからも隠れてこそこそと通っていた。


ある時、バイトで稼いだ30万円をあっさり献金したことが母にバレた。預金通帳を見られたのだ。学生の分際でそんなことをするほど教会にのぼせ上がっていた。高額な大学の学費を親に払ってもらっていたくせに。

教会のスタッフも、学生上がりや、社会経験が少ない若者がほとんどだったために、親の立場に立って指導できるような人材がいなかったことも、こんなひどいことをする要因になったであろう(もちろん、それ以上に教義による洗脳があったことは否定できない)。

当然のごとく両親は激怒した。それまで以上に私の行動を監視するようになった。


ほとんど教会には通えなくなった(連絡は取っていた)。大学を卒業して就職すると、自宅から離れて下宿していたものの、いよいよ忙しくなって、ますます教会から足が遠のいた。

が、ある時スタッフに一人から電話があって、今度4日修練会があるから参加してみないかと誘われた。

久しぶりだったので、そろそろ何とかしないといけないと感じ、連休を利用して参加してみることにした。


そこで、いきなり献身(教会用語で、仕事を辞めて、教会に人生、お金などすべてを捧げること)を勧められた。ずっと、いつかは、と考えてきたので、そのこと自体に反対はしなかったが、すぐにということには葛藤した。

そして修練会から帰って来ると、地元の教会のスタッフから、献身する具体的な日にちが示された。

あと1、2週間先の12月1日、それも就職して初めてのボーナス支給のその日に、ボーナスを受け取ってすぐに辞表を提出してこい、というのである。


もうメチャクチャである。普通に考えたら、これほど非常識なことはない。葛藤に次ぐ葛藤であったが、指示通りに実行した。案の定、周りからの冷たい視線、鼻でせせら笑うような先輩の対応。

人生でこれほど恥ずかしい、いたたまれない思いをしたことはなかったろう。


それだけではない。更なる修羅場が待ち受けていた。親にも仕事を辞めたことがバレて、再び家に連れ戻された。

それからの家での両親との反目の日々は、語るに憚られる。1週間くらいして教会スタッフからの「とにかく家を出て来なさい」との一言で、家を出ることを決意。

その時に母が「家を出て行くんだったら、私を殺してから出て行きなさい!」と私の目の前に包丁を突きつけながら言った一言を、私は生涯忘れることはないだろう。


私に対する期待が大きかった分、母の落胆と嘆きがどれほど大きかったことか。それを理解できるほど私は大人にはなっていなかったのだ。私の幼さにもまして、教会の指導の非人間性は、今から考えると、非難されてしかるべきものである。親への思い、相手の立場に立って考えるなどという人間性は、人類の真の親(?)であるメシヤにとって不要だったのかもしれない。そんなものが霞んでしまうほど、教会のメシヤに対する忠誠(親孝行?)の縛りは激しかった。


そうであったのだから、両親が反対牧師という統一教会に反対する活動家のところに駆け込んだとしても何の不思議もなかった。


着の身着のまま献身してからしばらくして、教会スタッフから、「あなたの名前が、反対牧師の教会で祈られています」と聞かされた。反対牧師に監禁されたにも関わらず、逃げ帰って来た女性からの情報だった。つまり私の両親が反対牧師のところに出入りしていて、私を拉致監禁する準備をしているというのである。


その時から私の逃避行は始まった。反対牧師に拉致されないように、いろいろな教会を転々とし、人事された世界日報では、名前まで変えて潜むことになった。


祝福(結婚)を受けて3、4か月経っても拉致されず、家庭問題を担当しているスタッフも、「金銭面で監禁できるような状態でないから、拉致されないよ」と言われ、妻を両親に紹介することにした。

だが、その場で悲劇は起きてしまう。


自宅で妻を両親に紹介している正にその時(先ほどのスタッフも同席していた)、背後から異様な物音がした瞬間、羽交い締めにされて、あっという間に車に引き込まれた。二人の叔父の仕業だった。


白いライトバンのような車に連れ込まれたようだった。窓に目隠しがしてあって、どこに行くのかわからない。が、幸か不幸か、ふとした隙間にチラッとK駅の看板が見えた。それから少しして車が停車した。そこがどこなのかおおよその見当はついた。


目隠しをされて、マンションの一室に押し込められた。5階か6階か7階かわからない。

それから両親と叔父一人(拉致に加担したもう一人は帰ってしまった)の奇妙な生活が始まった。何をするでもなく、両親から、今までのこと、教会に対する批判など、さまざまなことを聞かされた。時間はいくらでもあるのだ。

逃げる術はないかと窺うが、玄関の近くには叔父がいて、鍵がかけられている。鍵は頑丈な錠前とかではないが、元警察官の叔父が相手では、逃げ出すのはまず難しい。

皆が寝静まる夜でもなかなか難しい。鍵にチェーンが巻かれるようだ。誰か一人起きていて、監視しているということはなかったが、簡単ではない。


買い物担当は叔父である。調理を担当するのは、母である。母の手料理を食べて、愛を感じて欲しいのだろうか?背後でこの監禁を操っている牧師の意図を感じる。教会や妻の愛よりも両親の深い愛情を感じさせて、情で引っ張ろうとしている。


4、5日して、両親との激しい言い争いでお互いが疲れてくると、「そろそろいいだろう」ということで、牧師を呼んでくることになった。いよいよ黒幕が登場するのだ。


いよいよ牧師がやって来た。およそ牧師とは思えないような体格をした御仁だ。背が低い上に太鼓腹。後にアル中のため肝硬変で亡くなったと父から聞いたが、それも無理はないなぁという感じである。

1日目だったからか、統一教会の成立について簡単に話して帰っていった。当時異端と言われていた、腹中教やなんかから派生したというものである。

私は話を聞いている間中、体の震えが止まらなかった。それを見ていた牧師は、恐らくこれは与し易い相手だと踏んだに違いない。


牧師が帰った後、このままでは危ない、まともに話を聞いていたら確実に離教に追い込まれるだろうと感じた。監禁されてすぐに逃げ出さないと、逃げ出すチャンスはどんどん減っていく、と聞いていたので、明日牧師が訪問するその時を狙って脱出しよう、と決意した。そのために知恵を振り絞り、逃げ出す方法を考えた。そして、一生でこんなに祈ったことはないというくらい祈って、その時に備えたのである。


その時はすぐにやって来た。昨日と同じようにマンションの一室の玄関に入った時に、私は牧師の後ろに回りこんだ。そして、牧師を部屋に招き入れるように押した。その時一瞬の隙ができた。次の瞬間、私は振り向きざまドアを思いっきり押して、外に出た。玄関の前にエレベーターがあるのはわかっていたが、そんな物は使わない。恐らく部屋を出て左側に非常階段があるだろうということを予想して、全速力で左に走った。予想通り非常階段があり、更に全速力で駆け下りた。途中まで元警官の叔父が走ってついて来ているようだったが、マンションの外に出てしまう頃には、追手は諦めたようだった。


裸足のまま駆け下りて、このまま歩いていくのは余りにも変なので、Kの街の商店街で靴を買うことにした。財布は取られてはいなかったのである。店のおばさんは裸足で走ってきた男を無下に扱わず、事情はわからないのに優しい声をかけてくれた。とりあえず一番安いやつを買った。ありがたかった。


交通機関は捜索していると感じ、とりあえず行けるところまで歩いて行こうと思った。春の日かと思うような、暖かい冬の昼下がりだった。

どこをどう歩いたかもわからなかったが、なるべく目立たない裏道を歩いた。

まずJRのKG駅まで歩こうと思った。ここなら大丈夫だろうとふと思ったのである。その駅前で教会のスタッフ(当時は世界日報という新聞社の販売店にいたのだが)に電話して指示を仰いだ。

電話の向こうでは、信じられないといった感じの対応だったが、そこからタクシーに乗って、更にZ駅まで行って、そこから電車で帰ってくるようにということだった。


終始、周りが気にかかった。いつ追手に見つかるともしれないので、びくびくしていたのである。

無事にその時寝泊まりしていた販売店に着いて、やっと安堵した。すぐに妻と電話で連絡を取ったら、お互い涙で声にならなかった。


それからというもの更に逃走に拍車がかかった。外を歩いていても、後ろから誰かついて来ているのではないかとびくびくする。周囲のことを異常に警戒する生活が続いた。

5、6年は何度も拉致される夢を見続けた。心許して、親と話していると、不意に後ろから掴まれて、しまった!と思ったところで目が覚める。起きてみると冷や汗をかいているのだ。


ある時、やはり拉致監禁経験があるT氏が、同苦の会的なものを立ち上げたということだったので参加してみた。そこに参加していたのはわずか数人の拉致監禁経験者。みんな元気がなかった。

T氏はいろいろゲストを呼んだり、本人自身が語ったりして、拉致監禁に対しての考え方、対策、あるいは本人の意見などを講義した。

それまでにも、教会には対策担当者と称して、拉致監禁に対する対策を担当する人がいたが、監禁された時に、牧師から話がある教義批判についての反論を講義していた。が、実質どこまで効果があったのか、監禁されて離教する確率はかなり高かった。


教会としての拉致監禁に対しての対策は、この対策担当者と、先ほど書いた、名前を変えて各地を転々とさせる方法ぐらいしかなかった。拉致監禁経験者を一箇所に匿っている寮もあったということだ。

実質的な対策はまったくなかったと言っていい。これが創価学会や幸福の科学だったらこのままでは済まないよね、とその頃よく言われた。もっとマスコミ対策やら裁判やら、教会全体を挙げて取り組むに違いないからだ。

その点、旧統一教会は、献金やら伝道やら、教祖様から与えられる指示に汲々としていて、信徒の拉致監禁などに多くの金や人材を投入する余裕はないのだ。

はっきり言うが、統一教会には、信徒個人の人権など到底ない。人権という考え方自体がない。

最近、山上事件以来、二世の人権などとよく言われるようになったが、あれは外部向けのパフォーマンスと言って差し支えない。

加えて、マスコミ向けに、長期間監禁された後藤徹氏を始めとして、拉致監禁のことを訴えるようになったが、あれも外部向け、自己保身以外の何物でもない。今まで真剣に解決して来ようなどと、一切考えて来なかったくせに、都合のいい時だけ取り上げる。経験者としては怒りが収まらない。


監禁から相当の年月が経ってもPTSDが癒されない方、監禁されたのを苦に自殺された方、洗剤や薬物をあおってまで逃げた方、多くの方々が今までに考えられない痛みを経験して来た。

拉致監禁を実行した牧師を始めとして、反対派が悪いのは言うまでもないが、それと同様に、今まで有効な手段を一切取って来なかった旧統一教会も同罪と言えよう。

先ほどのT氏のように、自らの手で行動を起こそうという奇特な有志にも、場所を与えるだけで、何ら援助もしない。


話がとてつもなく長くなってしまった。もうそろそろ終わりにしたい。


お陰様で、私も今は拉致監禁の恐れはまったくなくなった(旧統一教会を辞めているから当然か)。両親共に鬼籍に入ってしまったので、もはや拉致監禁をする主体がいなくなってしまったのである。


今まで拉致監禁を経験した信徒の数は4300人に上るという。私もその一人ではあるが、たった6日で終わってしまったのは、不幸中の幸いである。


ところで、今回、大阪スピリチュアリズムサークルにおいて、所属のスピリチュアリストの方々のスピーチを聞く機会があった。その時に感じたのは、私のような経験をした人は少ないかもしれないが、霊的真理に出会うために、塗炭の苦しみを味わって来た人が多いということである。

スピリチュアリズム的に言えば、苦しみの体験を通じて、魂が目覚めるということだ。

私たちは、さまざまな経験をするためにこの地上世界に生を享けたのである。その中で苦しみの体験というのは貴重な体験である。この体験で何を学ぶのか?ということは重要である。


もう一年最後の月、12月になってしまった。来年は大宗教革命の年だという。旧統一教会が崩壊するのは間違いないとは思うが、それ以外の宗教も目に見えて衰退していく兆候が見えるかもしれない。

既成宗教の間違いに少しでも気がついたなら、シルバーバーチの霊訓を読んでいただきたい。霊的真理を知ってもらいたいとつくづく思う。

私は牧師や両親によって、物質的な牢獄に閉じ込められたが、間違った宗教に入信したまま霊界に行くと、霊的牢獄に閉じ込められるという。

霊的牢獄に閉じ込められる人が一人でもいなくなるよう、来年は頑張っていきたい。


ここまで読んでいただいてありがとうございました。