天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

個人崇拝による天国はありか?


▶︎そこに私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることも裏切ることもないからです。


(中略)

ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。
(シルバーバーチの教え・上 八章 地上の宗教の間違いより)


さて、いきなり衝撃の真実をお話ししよう。イエスが再臨したということである!

キリスト教では、十字架で亡くなられたイエスがいつか再臨して、悪に塗れたこの世を救ってくれるということが信じられて来た。
それは、天使のラッパの音とともに、再臨のイエスが出現し、イエスをキリストと信じている人々は携挙と言って、空中に引き揚げられ、そこでイエスと会うことになる。そして、栄化体という、老いることも、死ぬこともない不死身の体になり、天国で永遠にイエスと暮らすというのである。
しかし、クリスチャンでもない、信仰もしていない一般人からしたら、再臨?イエス?二千年前に生きていた人間が?何を荒唐無稽なことを!と思うに違いないのである。
そんな、非クリスチャンからしたらとても考えられないようなイエスの再臨は、何よりイエスは三位一体の神そのもの、という絶対的な崇拝対象であるからこそ可能となるのである。


イエスは我々人間とはまったく違う神そのものだった?果たして本当にそうなのか。もし我々が二千年前のユダヤに生きていて、存命中のイエスと出会ったなら、「この方こそまさしく生ける神である!」と人目も憚らず、大声で叫んだのか?
確かに、イエスが十字架上で息を引き取った時に人々は証言した。

「百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。」
(日本聖書協会 1954年改訳 マタイによる福音書第二十七章五十四節より)


それほどまでの奇蹟を彼らは見たに違いない。加えて、聖人と呼ぶにふさわしい、愛に溢れた生前のイエスの行跡を見て、「この方こそ生ける神の子キリストである!」と思ったとしても何ら不思議でないほどの人格の持ち主であったのだろう。

だが、冒頭のシルバーバーチの言葉には、個人崇拝を厳しく諌める言葉が綴られている。例えそれがキリストと崇められて来たイエスであっても、だ。
生前まったく認められることのなかったイエスが、長い時を経て、信仰の対象となっていったのは、既に亡くなっていたからという理由もあるだろう。死んだ人間は、生身の人間と違って、生々しい喜怒哀楽もない。目につく欠点や嫌がられる癖もない。本人の嘘偽りのない人となりがわからないだけ、神格化しやすい。

シルバーバーチは別のところで、イエスの意外な一面に言及している。
メソジスト派の青年牧師と論争をした箇所で、イエスが怒って、宮の庭で商売をしている人を追い出したり、両替人の台をひっくり返したこと(マタイ福音書第二十一章中で、宮きよめ事件と呼ばれている)について、イエスも人間的要素を持った、あくまで一人の人間であったと言っているのである。
そんな一人の人間を、神々しい、誰よりも優れている、人間離れしている、あるいは生き神のようだ、といったような形容詞を使って、神の座に祀り上げて良いものだろうか?

話は変わるが、まだ私が家庭連合(旧統一教会)の信仰を持っていた頃、誰かがこんなことを囁いていた。
「北朝鮮は長らく地上の楽園と目されて来たが、それが幻想だったことが証明された。だけど、北朝鮮のトップである金正恩の首をすげ替えたら、楽園が実現するよ」
それはつまり、北朝鮮の金正恩を中心として韓国(朝鮮)統一を達成するのではなくて、家庭連合の文氏夫妻によって韓国統一が達成されれば、今の北朝鮮のような、民衆にとって地獄のような国ではなく、誰もが幸福になれる天国ができるということである。当時信仰を持っていた私としては、即答で「そうだ!」と答えそうなものだが、本当にそうなるのか、しばらく考え込んでしまった。

果たしてそう簡単にいくものなのか?たった少人数の優秀な人間が国を支配し、その人間にすべての人民が服従すれば、理想の国家ができあがるのだろうか?

歴史上、独裁者による独裁国家は数知れずあったことだろう。その典型がヒトラーのドイツ第三帝国であり、スターリンのソ連邦である。
そして、その延長上に、現在の北朝鮮があると言っても良いのではないか。
どの国も人民を恐怖によって支配する構図が完璧に出来上がっていた。しかし、その国が天国であったなどと思う人間は誰一人としていないであろう。

もちろん、その対極にあるはずの現在の民主主義体制も、理想の国だとは言えない。むしろ、混乱と無秩序に終始する民主主義よりも、少数のエリートによる政治に期待する世論が醸成されて来ても不思議ではないくらい、現在の世界は退廃していると感じている人は多い。だが、歴史的に、一人の生ける神ともいうべき人物にすべてを任せ、その他の愚かな人民は、その一人に従って行けば、すべてうまくいくというような考えは、現在に至るまで出現しては消えて来た。

紀元前のユダヤ王国のメシヤ待望論(現代のユダヤ人もそうかも知れないが)、イエスの再臨も宗教的に言えばそうだ。ファンダメンタルなクリスチャンは今でももちろんイエスの再臨を信じている。

話は元に戻る。そのイエスが地上に再臨したのだ。だが、クリスチャンたちの期待とは違い、あくまでも「霊的」に再臨したというのだ。
そのイエスにでさえ、絶対的に崇拝するのは間違っている、とシルバーバーチは言う。
では、再臨したイエスに我々はどのように対応していけば良いのか?

イエスが人類救済の使命を帯びて、地上に再臨したのであれば、同じ使命を持って生きている我々の同志ということになるし、二千年前からスピリチュアリズム運動に携わっている我々の先輩ということになる。
一人の独裁が認められず、我々の自主性が重んじられる以上、イエスと同じ方向を向いて、今できる精一杯を一歩一歩積み上げて、目標に向かって進むしかないではないか。

いずれにしても、一人の人間によって即席にできる天国などなく、人類救済に向かう我々の不断の努力の中に、理想とする新しい国が見えてくることであろう。


イエスの再臨に期待と喜びを感じると同時に、千載一遇の瞬間に立ち会っている我々の責任の重さを実感するものである。