天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

私がスピリチュアリストになった訳

「天の時、地の利、人の和」とは、「天(天候)による好機も土地の有利な条件には及ばない。また、土地の有利な条件も人々の強いつながりには及ばない」という意味を持つ慣用句です。

            「コトバの意味辞典」から


はじめまして。あの悪名高き旧統一教会(現家庭連合)を退会して1年、真のスピリチュアリストに成ろうとしている者です。


三十数年統一教会を信仰して来て、何故にやめて、まったく新しい信仰、スピリチュアリズムを始めるようになったのか?

宗教に関心のない人には、ほとんど関係のないような内容だが、このブログを始めるに際し、ひとこと言わせて欲しい。


ひとことで言えば、私の良心が納得しなかったということだ。特に教理解説書と言われている『原理講論』と、「摂理」と呼ばれている組織上の指示の乖離である。

例えば、『原理講論』では、地上生活の目的として、一番はじめに「霊人体の成長と完成のため」(霊人体というのは、人間は大きく分けて霊と肉から成り立っており、そのうちの霊の体のこと)と謳っておきながら、実際には献金、伝道などの実績を最優先する、その体質である。

「いや、そんなことはない!」と信徒は反論するであろうが、建前としては確かに霊を中心にしているように見えるが、果たしてどれだけの信徒が「私は霊人体の成長のためにいつも努力して、実際これだけ成長しました!」と胸を張って言えるだろうか。


それを端的に表しているのが、「真の父母絶対主義」という言葉だ(真の父母というのは、教祖である文鮮明夫妻のこと)。真の父母の名の下にすべてが正当化されることだと言っていい。その真の父母の前では、個人の霊人体の成長などかすんでしまう。

いくら普段人のために尽くす生活をしていても、教祖夫妻の願う献金、伝道の実績(特に献金)を挙げることができなければ、立派な信徒とはみなされないのだ。

つまりは、教祖のためにどれだけのことをしたのか?その実績中心主義と言っていい。


これはスピリチュアリズムから見れば、物質中心主義に侵されている状態そのものだ。霊や心などの内的なものを主体にするという教義に反して、いつの間にかモノを中心にする価値観にすり替わっているではないか。


それ以外にも、家庭連合が物質中心主義に陥っている証拠はいろいろとあるが、これが私にはどうにも我慢がならなかった。

安倍元首相銃撃事件以前から、私はこの団体は既に死んでいる(?)と思っていた。


そんな時、以前家庭連合に所属されていて退会された方のブログで、スピリチュアリズムの存在を知ったのだが、当初はどこかの別の宗教団体に寝返った話か、くらいにしか見ていなかった。でも気になり、一応スピリチュアリズム普及会のホームページを読んでみた。

出だしは心霊現象やヒーリングの内容が多く、オカルトチックだなぁという感じだったが、読み進めていくと、霊界の説明が納得のいくものだったし、また人間は永遠に生きる霊界を見据えて、こう生きるべきだと明確に主張していた点に惹かれた。


そして何よりも、宗教団体という組織を作らず、献金もないということを知って、ますます興味が湧いた。

組織上の信仰を優先する宗教団体に嫌気がさしていたからである。


本来、信仰とは自由なものではなかろうか。組織の論理でもって、個人の信仰を束縛するのは本当の宗教ではない。人のために何かしようとすることは、誰かに言われなければできないことなのだろうか?


シルバーバーチの言葉を紹介する。


「私たちがこうして地上世界に戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる行為(サービス)のことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです。」

『シルバーバーチの霊訓」P244



本当の宗教とは何なのか?ぜひ考えてもらいたいテーマである。