天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

名もなく、金銭もなく、天に宝を積むこと

▶︎私は時おり、霊界の高級霊たちが目に涙を浮かべている姿を見かけることがあります。地上の人間が同胞を引き上げる大きなチャンスを捨て去っている姿を見て、いつかその愚かさに気づいてほしいと願い、じっと眺めているのです。そうかと思うと、嬉しさに顔をほころばせているのを見かけることもあります。名もない人が善行を施し、それが暗い地上世界に新しい希望を灯してくれたからです。

(シルバーバーチの教え(新版・上)三章P56)


(シルバーバーチの霊訓の掲載については、スピリチュアリズム普及会の了承済みです)



さて、旧統一教会の宗教法人解散が正式に裁判所に要請された。


統一教会の元信者として、教会内の体験を紐解きながら、この解散要請が真っ当なものであるか、私見を述べたいと思う。

法律に関しては、詳しくないが、法的にはいろいろ問題があることは重々承知している。

が、果たして政府の言う、「悪質性、継続性、組織性」がこの教団の行為にあるのか、考えたい。


そのために、私がこの教団に入った経緯、またこの教団で経験したことなどを綴ってみようと思う。


元々、私がこの教団に入ったのは、大学一年の時に、街頭で声をかけられたことがきっかけであった。アンケートと称して、いろいろな質問を投げかけられたが、その中で、関心のあることを選択する選択肢に、「人生の目的」があった。


「人生の目的って何だと思いますか?」

いきなり目の前の女性に尋ねられた。こんな街角で、見ず知らずの女性に、私が心の最も深いところで密かに考えていたことを探られるとは。最も大事なものを突かれたような気がして、ぎょっとした。

その質問には答えることができず、正直悔しかった。


それからビデオセンターという所に連れて行かれて、専属のカウンセラーの人と話をした。どうやらここで教養講座を受講して欲しいらしい。その日は夜も遅かったので、もう一度来場するという約束をして、その女性と別れた。不思議なことに、その女性とはまったくの初対面なのに、どこかで会ったような、知り合いだったような気がして、ずっと気になっていた。


そのビデオセンターのトイレに、貼ってあった言葉がやけに心に沁みた。

「草花が太陽に向けて花を咲かせるように

私たちも人の温かさにふれた時

固く閉じていた心がやさしくなごみます。

ちょっとした思いやりが

人の心を感動させ

小さないたわりが

人と人を結びつけるきずなとなります。」


しかし、その後この言葉とは裏腹に、普段の小さな奉仕など霞むような行為が奨励されることになる。


結局、「序論」というビデオの、「宗教と科学を統一された一つの課題として解決する」という一言に感銘して、受講することになった。だが、科学的という言葉とはまったく違う、非科学的な教えを受けることになったのだ。


始めは、ビデオセンターで「教え」を学ぶことになる。だが、このビデオセンターは教会ではない、と彼らは主張するのだ。

このあと4日間修練会に参加して、初めて教祖であるメシヤが明かされ、統一教会だということが判明するのだ。この時点で、幾許かの人は「教え」の素晴らしさに感動して、この教会にすべてを捧げることを決意する。そして、修練会の最後に決意表明をさせられるのだ。


実際、私も学生の身分ながら、一生この道を行くという決意表明をした。だが、本当にこのまま進んでいいものか、心の中で葛藤していた。


4日修練会を終えると、いよいよ信徒として認められ、活動もするようになる。伝道と称して、ビデオセンターに勧誘するのだ。しかし、ビデオセンターは教会の管轄ではないので、統一教会とは一切明かさない。

「統一教会でしょう?」と勘繰られてもしらを切るだけである。いわゆる正体隠し伝道である。

ものみの塔や創価学会が、正面切って正体を明かすのに対し、明らかにフェアではない。このやり方が正々堂々としたものか、汚いやり方かどうかは明らかであろう。それは信徒個人が判断して行っているものではない。組織の上からの指示の下行っているものである。これだけでも「組織性、悪質性」があるのはハッキリしている。

「他の組織でも同様なことをやっているだろう」という反論は通用するだろうか。組織に引き入れるがために故意にやっているとしたら、詐欺に通じる。真っ当な宗教がやることではないのではないか。


伝道と並んで、それ以上に異様に感じたのは、経済活動、いわゆる霊感商法である。私は、ゲストを連れてその場に行き、壺、印鑑などを販売することはついぞなかったが、ゲストが霊物を購入して、救われるように、現場の祈祷所で激しく祈ったのを覚えている。神とサタンの一線と言われ、高額な霊物を無事「授かれる」ように気合を入れて祈るのだ。

初めて現場に入った時の異様さは、言葉に表現できない。宗教ってこんなもんなのか?と思ったが、常識では考えられないようなことをしなくては世界の復帰(救済のこと。いわゆる統一教会の原理用語)など到底できないと考えることにした。


この霊感商法は、教会の組織の上層部からの指令で動いていることは、信徒であった者であれば自明のことである。「組織性、悪質性」はもちろんのこと、継続性もあると思う。

それは霊感商法が実質なくなった後も、「清平の摂理」が行われていることでも明らかである。つまり、手を替え品を替えということだ。


他にも、W、I、マナ(それぞれ壺、印鑑、人参茶の意味)といった隠語を使うことがある。お金はKだし、TV100といったものもあった(Kの目標100億という意味)。こんな隠語を使うこと自体、自らやましいことをしていることを証明しているようなものだ。


田中会長の先日の会見では、相変わらず組織の責任を認めていないようだが、改めて往生際が悪いと思う。未だに末端の信徒が勝手にやったと思っている人が世間にどれだけいるのか?

信教の自由の観点から、解散はおかしいという人がいるが、解散したからといって、信仰できないわけではない。

この際、組織的に活動できないようにするのが一番いいように思うがどうか。その上で一人ひとりの信徒に改めて考えてもらいたい。この組織で本当に地上天国が実現できるのか?文氏、韓氏、その一族は本当にメシヤであるのか?現実を見てもらいたい。


莫大な金銭の収奪、人を騙してまでも信仰させるやり方の延長線上に天国はない。

創価学会の長井氏が、創価学会の方が多額な金額を献金する、とおっしゃっていたようだが、額が問題ではない。億万長者に100億献金せよ、と言うことより、日々の生活を月給でやっと賄っている家庭に、100万を月内に献金せよという方がよっぽど過酷である。統一教会の信徒は、ほとんどが人生のすべてを諦めて、人生をこの組織に捧げたのである。そして度重なる献金で、生活保護を受けるほどの家庭もあるのである。


つい、内面の怒りが爆発してしまった。もうこれくらいでいいだろう。とはいえ、私もこれらの悪行のお先棒を担いでいたので、責任はあるだろう。そのためにも旧統一教会の真実を暴露し、信徒を救う必要がある。


こんなことをするくらいなら、日々の暮らしを品行方正に過ごし、身の回りの方々に奉仕する方がもっと天国は近いと思うのだが。

そのような考えは、元々統一教会にもあったはずで、それが家庭教会であり、氏族メシヤではなかったのか(いずれも統一教会の用語)。


「ちょっとした思いやり」「小さないたわり」

これらが少しでも忠実に教会の中で大切にされていたら、解散請求にまで至ることはなかったのではないのか。

しかし、もう遅い。賽は投げられたのだ。今はもう信徒たちの一人ひとりが、教会の縛りから目覚めて、身近な奉仕に勤しみ、教会内での名声や、献金実績、伝道実績よりも、霊界での生活を保障してくれる、天の宝を積み上げるようになることを祈っている。


次回は私が経験した稀有な事件、拉致・監禁を考えてみたい。