天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

献金考ー貧乏人は天国に入れないのか?

▶︎ 別の日の交霊会で――

「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることにあきれるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものはおろそかにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。

「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

(スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ 11章 霊的真理は不変ですより)


▶︎さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

(マタイによる福音書19章19節〜)


天国に入るのは、果たして金持ちか貧乏人か?

久しぶりにブログを更新させていただいた。今回も、私が以前信仰していた統一教会の批判を行うことにより、真の宗教とは何か考えてみたい。


私がまだ統一教会の教会員だった頃、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というマタイ伝のこの聖句を捩って、「貧乏人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と妻とよく話したものだった。

それはなぜか?

上記のマタイ伝の箇所では、金持ちは、金銭に対しての執着心が強く、他人のために自分の財産を投げ打つような自己犠牲を払うことができない人間が多い故、イエスはこう述べたのであった。つまり、物質的欲望が強く、利他愛のない人間は、神の国に入ることができないということである。


では、統一教会ではなぜ貧乏人は神の国に入ることができないのか?

統一教会では、献金プロジェクト(統一教会では、摂理と呼ぶ)の度に個人の献金ノルマの金額が決まっていて、それはかなりの高額になる。大抵、何十万、何百万という額であり、実施されて来た摂理のノルマの金額をトータルすれば、何千万という額になることだろう。それがエンドレス、つまりその摂理が次から次に、終わりなく続くものだから、山上容疑者のお母さんのように、生涯で何億もの献金をする信徒も出てくるのである。

ノルマを果たして、高額献金を達成した信徒には、賞賛の嵐が降り注ぎ、各教会や聖地の教会施設に、達成者の名前が堂々と貼り出される。しかし、未達成の者には、周りからの冷たい視線と、ノルマを達成するための激しい追求が待ち受けている。まるでどこかの生命保険会社か、自動車販売のディーラーのように、各信徒の献金実績をグラフや表にして、教会の目立つ所に掲示している教会も多い。

このように信徒の名誉心、羞恥心、悔しさ、勝ち気、妬みなどの心を巧みにくすぐって、高額献金するよう仕向けるのだ。もちろん、元々資産がある信徒の方が、献金ノルマ達成には絶対に有利だ。そして、献金目標を勝利した信徒が信仰のある人格の優れた模範信徒とされ、死後、教祖のいる天上天国に導かれ、永遠に教祖とともに幸福に暮らすようになると思われている(このあたりは既成キリスト教会の天国観と似ている)。

それ故、貧乏人は、献金ノルマが達成できず、統一教会の信徒が望む、教祖とともに暮らす天国には入れないというわけだ。


貧乏な信徒に献金させる手段

私のような学生上がりで、ろくろく手に職をつけず、献身(それまでの仕事を辞めて、教会に人生のすべてを捧げること)をした後に、中年になってからこの世の仕事に再就職した人間にとっては、はっきり言って、普段の給与だけでは高額献金のノルマの達成は困難だ。だから、教会の責任者は、私のような一般信徒に、無理に借金をさせ、ひいては自己破産させてでもノルマを達成させようと画策するのだ(因みに私は自己破産していない)。


また、教会のやり方は、目的のためには手段を選ばずで、教会責任者が、信徒個人の資産では、ノルマ達成はどう見ても無理だと判断すれば、親や親戚や知り合いの家まで押しかけさせ、お金を無心することまでさせる。


高額な献金をすればいいのか?

では、本当の献金とは、どんな献金なのか?高額な額を捧げれば捧げるほど良い献金と言えるのか?


イエスは、マルコ伝12章42〜44節で、ユダヤで最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れた女性に対し、「誰よりも多く投げ入れた」と言われた。


ここでイエスは、献金の金額が問題ではなく、真心を込めて、自分の持っている財産の精一杯を捧げることを賞賛している。


だから、いくら献金したかということではなく、神のために、そして、捧げた献金が多くの人のお役に立つようにと最大の真心を込めて行うのが本当の献金ではないだろうか。


統一教会では、献金する際、捧げた献金を聖職者がどう扱おうと、例え海にすべて投げ捨てたとしても、感謝して捧げるのが献金する信徒の正しい姿勢であると言われた。


確かに、この信仰姿勢は素晴らしいと思うが、統一教会では、献金の使い道として、教会施設の箱物の建設や、教会の幹部の中抜き(献金の横取り)が平然と行われている。これは宗教として果たしてどうなのか?建前では綺麗事を言っても、陰では汚いことを平気で行っているこのやり方。

それがいいのか悪いのかを議論せずして、信徒の信仰姿勢を云々するのは、宗教としてフェアではないと思う。一般信徒は、教会のやり方に一切口を挟むな、ということであれば、もう何も言えなくなってしまう。


まあ、この献金の件に限らず、統一教会のやり方は上意下達で、幹部たちの意のままだから、もはや議論の余地などないだろうが。


本当の宗教とは?

再度、訴えたい。献金するのが尊いのは、高額な献金をして、自分の信仰深さを誇るのではなく、より大きな存在、神に対して捧げる心、自己犠牲の心が大切であることを。

そして、その尊い心を踏みにじる教団、宗教組織に対して、強い憤りを感じるのは私だけではないだろう。

私が統一教会に疑問を抱いたのは、この献金の件も大きな一因である。

スピリチュアリズムでは、本当の宗教には、宗教組織や宗教形式(教祖、教義、儀式、布教活動、宗教的施設)は必要ない、と言い切っている。

しからば、宗教組織に従って、高額献金する必要などどこにもない。ましてや、宗教施設も不要なのだから、施設建設の資金のために献金する必要はまったくないのだ。

今ならば、宗教組織、宗教施設、そして高額献金から解放されて、真に自由に、自己の責任で霊的成長を成し遂げる信仰こそが本当の宗教だと声を大にして言える。


『ブラザーサンシスタームーン』

さて、統一教会に入信したばかりの頃、『ブラザーサンシスタームーン』という映画を視聴した。数十年前のその頃でさえ、かなり古い映像だと感じたから、相当な昔に製作された映画であろうが、この映画に妙に惹かれるものがあった。

内容は、中世のいわゆるアッシジのフランチェスコの半生を描いたものである。戦闘に疲弊して、悩んだ末に、自分の持てる物を、笑いながら家の2階から放り捨てたその姿、自らの良心の赴くまま、家を捨て、放浪の修道生活に入った彼の行動力。まさに物的欲望をかなぐり捨てて、霊性中心に生きるその生涯。その生涯すべてが私の心に刻み込んだものが、統一教会の教義よりも大きかったことは、私にとって本当に幸いであったと今更ながら感じるのである。


ヒーリング考ーニセのヒーリングと真のヒーリング

▶︎あなたが、ヒーリングによって治るということは、まだ霊界へ帰る時期に至っていないことを意味します。それはまた、魂の成長にとって身体の苦痛を味わうという体験が必要ではなくなったことを意味します。もとより、霊界に戻るまでに体験しなければならないことは他にもあります。肉体の苦しみだけが、地上でなすべき体験のすべてではありません。

治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、ヒーリングの体験を通して患者の魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、ヒーラーがなし得るさらに偉大な仕事は、患者の魂に感動を与え、真の自我に目覚めさせてあげることなのです。それに比べれば、身体の癒しは大して重要ではありません。

(シルバーバーチの教え(新版・下)  十九章 ヒーリングの問題、P71より)



シルバーバーチの霊訓及びスピリチュアリズム普及会の出版物からの掲載、転載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)



今回についても、旧統一教会を批判しつつ、スピリチュアリズム運動の素晴らしさを紹介したい。

なにしろ、いよいよ霊的真理による大宗教革命が本格化するからである。


清平摂理の恐怖


私が旧統一教会に所属していた2000年〜2010年頃は、清平(チョンピョン)摂理という教会内の大プロジェクトが進行していた(今でも大々的に行われているとのことだが)。


清平摂理とは、簡単に言えば、教祖が大々的に推進しているプロジェクトで、冬季オリンピックが開催された韓国の平昌(ピョンチャン)近くにある清平の地に地上天国を作ろうとする試みだ。その中心行事は、役事と言って、身体を叩いて、全身に取り憑いている悪霊を追い出したり、先祖解怨(かいおん)と言って、とんでもない金額を払って、悪霊と化した先祖の怨みを解き、人格を完成させ、絶対善霊にすることにより、地上人を病気やさまざまな悩みから解放するという癒しの技を行うものだ。こう書くと、いかにもインチキ臭く感じるのだが、当の教会員たちは真剣になって取り組み、どうやって金策するのかをいつもいつも悩んでいたのを思い出す。


今でこそ、神以外に「絶対」なんてあり得ない、「絶対善霊」なんてウソだ、と自信を持って言えるのだが、洗脳によって、理性的判断ができなくなっている教会員たちは哀れ素直に信じてしまうのである。


また、統一教会の正式な教理解説書である原理講論にも、

「地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである」と書いてある。

(光言社発行 原理講論 前編第五章 復活論P 225より、肉身・・・肉体のこと、復活・・・堕落した人間が、創造本然の状態に戻っていくようになること、協助・・・霊人たちが復活するために、地上に再臨して、地上人が使命を成し遂げられるように(霊的成長できるように)霊界から協力すること)


霊が協助する対象は、地上の子孫である。そして、悪霊となって地上人に取り憑くのは先祖の霊が多いという。それなら、そんなインチキ臭い役事や高額献金などせずに、霊的成長をする努力をすれば、霊界の先祖は悪霊から善霊になって、先祖解怨になるのではないか!と誰もが思うはずだ。


だが、当の統一教会のスタッフはそうは答えない。

「役事を受けた後に、そのままではまた悪霊が取り憑くので、霊人体(スピリチュアリズムでは霊体)を成長させる努力をしなさい」と指導する。

教義は一応守る姿勢は見せるが、何としてでも、役事を受けさせ、献金を巻き上げたいのだ。


霊感商法から清平の役事に至るまで、手を替え品を替え、人々(特に日本人)からお金を収奪しようとする小賢しい悪知恵は、本当に留まることを知らない。


本当のヒーリングとは?


さて、打って変わって、スピリチュアリズムで行われているヒーリングはどうであろうか。


先日、スピリチュアリズムの公開ヒーリングを体験して来た。

鉦や太鼓を打ち鳴らして踊りまくる統一教会の役事とはまったく違って、静かで落ち着いた雰囲気の中で、終始厳かな段取りで会は進行した。


私も、ヒーラーの方から、肩に手を当ててもらい、霊的エネルギーを注入していただいた。ヒーラーが身体に触れた瞬間から、身体が火照るように暖かくなるのをハッキリと感じた。こんな感覚は今までにないことだった。


私は現在、特に身体の悪い所はないので、「痛みがなくなりました」とか、「持病が治りました!」ということはないが、この癒しの技を受けるのに、一切金銭のやり取りはない。「あなたの病気は治りますが、そのためには〇〇万円が必要です」とか、私以外、持病持ちの人さえ対価を要求されて受けているわけではない。


統一教会の清平役事、先祖解怨はもちろん、一般のヒーリングも高額の代金支払いがあるというのに、一切合切タダとは、これが本当のヒーリングなのか。


そう言えば、新約聖書に出てくるイエスの癒しの技も、お金を払って癒やしてもらったとは書かれていない。


病気が治るだけではダメ


冒頭のシルバーバーチの言葉にも、「患者の魂に感動を与え、真の自我に目覚めさせてあげることなのです」とある。

つまり、病気が治ることよりも、魂が覚醒して、霊的真理を受け入れ、真理に基づく新たな人生を出発するようになることが大切なのだ。

そこには、金儲けや、自分の利益のために他人を利用してやろうなどとする意図は微塵もない。


まさに高級霊からの地上人への贈り物、とは言えないだろうか。


ここにも、徹底した霊的成長至上主義の姿勢が如実に示されていると言える。






霊的真理にすがって

▶︎現実に苦しみ・困難に遭遇した時は、誰もが視野が狭くなり、苦しみだけに心が占められるようになります。しかし、霊的真理を知っていることの真価の発揮のしどころは、まさにそこではないでしょうか。死後の世界があること、この世での名誉や名声や他人の評価などはどちらでもよいことを思い出すのです。裸で生まれ裸であの世に帰るのだから、この世の全てを捨ててもよいのだと、思い切って心を整理するのです。苦難に直面した時こそ、自分をひたすら真理に従わせる生き方が必要とされます。私達に勇気を与え、心の持ち方を安定させてくれる霊的真理にしがみつくのです。挫けそうになる弱い心を真理で絶えず立て直して、苦しみに立ち向かって行くのです。

苦難の最中にある時は、紙に書き出した一つのシルバーバーチの言葉を、一日に何十回となく取り出して、心を整理するといったことが必要です。誰もいないビルの屋上に行って、一つの霊的真理を手掛かりに、自分の人生を霊的視点から眺めることが必要です。窮地に立たされた時は多くの真理を読むことはできなくなります。たった一言の霊的真理にしがみつくことが最上の方法になるものです。


(スピリチュアリズム普及会 ニューズレター第2号 魂の成長は地上の苦難をプラス思考で乗り越えることによってなされます 霊訓の示す苦難への心がまえ より)


▶︎私達に与えられた霊的真理がこれまでの人類歴史上最高のものである以上、その実践は、人類歴史上最高次元の信仰でなければなりません。そうでないかぎり、高級霊界の目的とする“人類救済”は実現しないことになります。スピリチュアリズムは、その深さ・純粋さ・情熱において、歴史上の最高レベルの信仰実践(霊的実践)でなければなりません。これまでの地上の宗教の中で、純粋さの点において最も優れていたのは、キリスト教に代表される“殉教“です。信仰のために生命を捨てる――スピリチュアリズムの信仰もまた当然そうでなければなりません。キリスト教によって示された信仰以下のレベルであってはならないのです。

私達が、スピリチュアリズムのために自分の人生・生命をすべて捧げるのは当然のことなのです。そうであってこそ、スピリチュアリズムははじめて“純粋な信仰”となります。地球上の全人類の命運を掛けた戦いの最中に、自分のことだけを考えたり自分のことを優先する人間を、霊界の人々は頼りにすることはできないでしょう。クリスチャンでさえ信仰のために生命を捨ててきたのに、それとは比較にならないほど重要な立場にある私達が、人生と生命を捧げないことは、霊界の人々の期待を根底から裏切ることになるのです。


(スピリチュアリズム普及会 ニューズレター第5号 もう一度、スピリチュアリズムの大原則と全体像の確認を! スピリチュアリズムは、キリスト教の“殉教”を超える純粋な信仰です より)


スピリチュアリズム普及会の公式ホームページに掲載されている読み物をほとんど読破してしまい、今、二度、三度と読み直している。

すると、初めて読んだ時には、ほとんど抵抗もなくスルーして先に進んでいた箇所が、二度目、三度目には、思いもかけず心に引っかかり、容易に先に進めないというような現象が出てきた。

それが上に挙げたニューズレターの一部である。


苦難に直面した時、スピリチュアリストとして、如何に対処すべきなのかーーー誰かに相談するとか、この世の悩み相談とかに頼ったりするのではなく、霊的真理にしがみつくーーーそれもたった一つの霊的真理にすがって乗り越えんとする。スピリチュアリズムは徹底した自力救済なのである。


確かに、スピリチュアリズムに出会う前、間違った宗教を信仰していた時にも苦難はあった。その時にも、その宗教の教義から苦難を解決する手段を見つけようとしたことはあった。


だが、もう死んでしまいたい、と思い悩むような窮地に立った状況で、たった一言の真理にすがって、伸るか反るかというようなところを越えていくことがあったのか。そこまで追い込まれて、真剣にスピリチュアリズムに人生のすべてを懸けて臨もうとしただろうか。

大いに自問自答したのである。


そして、人類歴史上最高次元の信仰!キリスト教の殉教以下であってはならない!という言葉に頭を殴られたような衝撃を感じた。


まだまだ甘いな!と守護霊、背後霊、高級霊団の方たちから言われたような気がした。我々スピリチュアリストは、歴史上現れたどの宗教者、修道者よりも重要な立場に立っている。ならば、こんないい加減な生き方、曖昧な闘い方をしていていいものか?


試練の時、迷いの時、どん底から這い上がるような厳しい歩みをしてこそ、背後でスピリチュアリズム運動にすべてを懸けている背後霊団の方たちの苦労に報いることができる。それならば、もっともっと可能な限り高い目標に向けて努力すべきだ。そのための万能の武器となる霊的真理は既に準備されている。我々はその真理をどれくらい必要としているのか?どれくらい真理にしがみついて、困難な現状を打破しようとしているのか?

そして、その武器をいかに使っていくかは、我々の歩みにかかっている。



前回のブログでも書いたように、第二、第三のパウロとなって、再臨のイエスとともに、人類歴史上最高の時代を、悔いることなく、この運動に最高の貢献をしていく決意を今、固めている。



(シルバーバーチの霊訓及びスピリチュアリズム普及会の出版物からの掲載、転載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)