「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに
しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」
「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。
「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。
皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」
(スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ 11章 霊的真理は不変ですより)
▶︎さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
(マタイによる福音書19章19節〜)
天国に入るのは、果たして金持ちか貧乏人か?
久しぶりにブログを更新させていただいた。今回も、私が以前信仰していた統一教会の批判を行うことにより、真の宗教とは何か考えてみたい。
私がまだ統一教会の教会員だった頃、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というマタイ伝のこの聖句を捩って、「貧乏人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と妻とよく話したものだった。
それはなぜか?
上記のマタイ伝の箇所では、金持ちは、金銭に対しての執着心が強く、他人のために自分の財産を投げ打つような自己犠牲を払うことができない人間が多い故、イエスはこう述べたのであった。つまり、物質的欲望が強く、利他愛のない人間は、神の国に入ることができないということである。
では、統一教会ではなぜ貧乏人は神の国に入ることができないのか?
統一教会では、献金プロジェクト(統一教会では、摂理と呼ぶ)の度に個人の献金ノルマの金額が決まっていて、それはかなりの高額になる。大抵、何十万、何百万という額であり、実施されて来た摂理のノルマの金額をトータルすれば、何千万という額になることだろう。それがエンドレス、つまりその摂理が次から次に、終わりなく続くものだから、山上容疑者のお母さんのように、生涯で何億もの献金をする信徒も出てくるのである。
ノルマを果たして、高額献金を達成した信徒には、賞賛の嵐が降り注ぎ、各教会や聖地の教会施設に、達成者の名前が堂々と貼り出される。しかし、未達成の者には、周りからの冷たい視線と、ノルマを達成するための激しい追求が待ち受けている。まるでどこかの生命保険会社か、自動車販売のディーラーのように、各信徒の献金実績をグラフや表にして、教会の目立つ所に掲示している教会も多い。
このように信徒の名誉心、羞恥心、悔しさ、勝ち気、妬みなどの心を巧みにくすぐって、高額献金するよう仕向けるのだ。もちろん、元々資産がある信徒の方が、献金ノルマ達成には絶対に有利だ。そして、献金目標を勝利した信徒が信仰のある人格の優れた模範信徒とされ、死後、教祖のいる天上天国に導かれ、永遠に教祖とともに幸福に暮らすようになると思われている(このあたりは既成キリスト教会の天国観と似ている)。
それ故、貧乏人は、献金ノルマが達成できず、統一教会の信徒が望む、教祖とともに暮らす天国には入れないというわけだ。
貧乏な信徒に献金させる手段
私のような学生上がりで、ろくろく手に職をつけず、献身(それまでの仕事を辞めて、教会に人生のすべてを捧げること)をした後に、中年になってからこの世の仕事に再就職した人間にとっては、はっきり言って、普段の給与だけでは高額献金のノルマの達成は困難だ。だから、教会の責任者は、私のような一般信徒に、無理に借金をさせ、ひいては自己破産させてでもノルマを達成させようと画策するのだ(因みに私は自己破産していない)。
また、教会のやり方は、目的のためには手段を選ばずで、教会責任者が、信徒個人の資産では、ノルマ達成はどう見ても無理だと判断すれば、親や親戚や知り合いの家まで押しかけさせ、お金を無心することまでさせる。
高額な献金をすればいいのか?
では、本当の献金とは、どんな献金なのか?高額な額を捧げれば捧げるほど良い献金と言えるのか?
イエスは、マルコ伝12章42〜44節で、ユダヤで最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れた女性に対し、「誰よりも多く投げ入れた」と言われた。
ここでイエスは、献金の金額が問題ではなく、真心を込めて、自分の持っている財産の精一杯を捧げることを賞賛している。
だから、いくら献金したかということではなく、神のために、そして、捧げた献金が多くの人のお役に立つようにと最大の真心を込めて行うのが本当の献金ではないだろうか。
統一教会では、献金する際、捧げた献金を聖職者がどう扱おうと、例え海にすべて投げ捨てたとしても、感謝して捧げるのが献金する信徒の正しい姿勢であると言われた。
確かに、この信仰姿勢は素晴らしいと思うが、統一教会では、献金の使い道として、教会施設の箱物の建設や、教会の幹部の中抜き(献金の横取り)が平然と行われている。これは宗教として果たしてどうなのか?建前では綺麗事を言っても、陰では汚いことを平気で行っているこのやり方。
それがいいのか悪いのかを議論せずして、信徒の信仰姿勢を云々するのは、宗教としてフェアではないと思う。一般信徒は、教会のやり方に一切口を挟むな、ということであれば、もう何も言えなくなってしまう。
まあ、この献金の件に限らず、統一教会のやり方は上意下達で、幹部たちの意のままだから、もはや議論の余地などないだろうが。
本当の宗教とは?
再度、訴えたい。献金するのが尊いのは、高額な献金をして、自分の信仰深さを誇るのではなく、より大きな存在、神に対して捧げる心、自己犠牲の心が大切であることを。
そして、その尊い心を踏みにじる教団、宗教組織に対して、強い憤りを感じるのは私だけではないだろう。
私が統一教会に疑問を抱いたのは、この献金の件も大きな一因である。
スピリチュアリズムでは、本当の宗教には、宗教組織や宗教形式(教祖、教義、儀式、布教活動、宗教的施設)は必要ない、と言い切っている。
しからば、宗教組織に従って、高額献金する必要などどこにもない。ましてや、宗教施設も不要なのだから、施設建設の資金のために献金する必要はまったくないのだ。
今ならば、宗教組織、宗教施設、そして高額献金から解放されて、真に自由に、自己の責任で霊的成長を成し遂げる信仰こそが本当の宗教だと声を大にして言える。
『ブラザーサンシスタームーン』
さて、統一教会に入信したばかりの頃、『ブラザーサンシスタームーン』という映画を視聴した。数十年前のその頃でさえ、かなり古い映像だと感じたから、相当な昔に製作された映画であろうが、この映画に妙に惹かれるものがあった。
内容は、中世のいわゆるアッシジのフランチェスコの半生を描いたものである。戦闘に疲弊して、悩んだ末に、自分の持てる物を、笑いながら家の2階から放り捨てたその姿、自らの良心の赴くまま、家を捨て、放浪の修道生活に入った彼の行動力。まさに物的欲望をかなぐり捨てて、霊性中心に生きるその生涯。その生涯すべてが私の心に刻み込んだものが、統一教会の教義よりも大きかったことは、私にとって本当に幸いであったと今更ながら感じるのである。