天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

我が半生と立志伝

天の時地の利人の和

▶︎要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことなのです。なぜなら、生命とは霊であり、霊とはすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知った時、つまり霊的意識が目覚めた時、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかといったことに得心がいきます。それからの人生は、その後に宿命的に待ちうける、より豊かで、より大きな生命の世界への身仕度のために、“人のために自分を役立てる”ことをモットーとして生きるべきです。」


(「シルバーバーチの霊訓 地上人類への最高の福音」 7章 偉大さの尺度は奉仕的精神の度合いにあります より)




私がスピリチュアリズムに出会ってから3年の月日が経った。同時代にイエス再臨が実現して、地球に霊的新時代が到来した今、再臨のイエスと共に歩むこの時を、決意を新たにして臨みたいと思い、もう一度自分の半生を振り返ってみて、その半生記を短く綴ってみた。



青少年時代


幼い頃より本をよく読んだ。小学生ぐらいまでは、科学関係の本などを読み、同時に幽霊、霊界、UFO、宇宙人、超能力に関心を持ち、その関係の本を読み漁った。

だから、スピリチュアリズム普及会の『スピリチュアリズム入門』に掲載されている心霊現象の写真は、その時に既にもう見ていたので、3年前に『スピリチュアリズム入門』を読んだ時、本当に懐かしいと感じたものだった。


だが、成長するにつれ、超常現象についての関心は薄れ、10歳を過ぎる頃にはその手の趣味は完全に卒業することになった。


とある小学生高学年の時、誕生日のプレゼントとして、友人から、グリーンのハードカバーの山本有三の『路傍の石』の本をもらった。実は、まったく同じ本が、既に私の家の本棚に並んでいたのだが、それまでは、分厚い緑の表紙に堅苦しさを感じ、一度も読んでいなかった。

しかし、せっかくいただいた本であるし、もったいないから一度読んでみようと思い立ち、読み始めたのである。

すると、みるみる内容に引き込まれて一気に読破した。そして、次に本棚にあった同じシリーズの下村湖人『次郎物語』(全5巻)も読んでしまった。

読み終えると、私の心のうちに、志が立ったようだった。それは、俗に言う「世のため、人のために何かしたい」というようなものだった。


それからのことである。純文学の本を次々と読むようになったのは。

そして、人はなぜ生きるのか、どこから来て何処へ行くのかということを深く思索するようになった。


だが、中学、高校を通じて自らの心の醜さに悩み、こんな自分には生きている価値などないのではないか、と自殺まで考えるようになるほどになる(正に若気の至りではあるが)。


大学生になり、受験のストレスから解放されると、深く思い詰めることがなくなった。そして、再び自分は人類のため、理想世界を造り上げないといけない人間なのだ、と思い込むようになった。


統一教会に人生を捧げて


そんな時、あの宗教に出会ったのだ。

理想世界を造ることが可能な真理に出会うことができるのなら、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の心持ちでいた私は、あの宗教の、「完璧な理論」とまで言われた教義に引き込まれた。

特に、「宗教と科学を統一した課題として解決する新しい真理が必要」というフレーズに感銘を受けたのだ。

冷静になって考えてみれば、宗教と科学はまったく別の分野の真理(理論)を解明するために棲み分けをしているのに、同じステージで問題を解決できるはずがはずがないのだが、その時はまだ若く、言葉の魔力に惹かれてしまったのだ。


すっかりハマってしまった私は、大学を卒業して、一度就職したにも関わらず、一年も経たないうちに離職して、統一教会に身も心も捧げて、「献身」してしまったのだ(このあたりのことは、以前ブログにも書いた)。


それから数十年、その間、結婚(統一教会では祝福と呼ぶ)、家庭出発、両親からの監禁など、紆余曲折して来たが、五十路を過ぎた頃にあっさりと統一教会を卒業してしまった。


それは偏に、統一教会では、理想世界を造り上げることなど到底敵わないということを悟ったからだ。


新しいスピリチュアリズムという道


先祖解怨という霊的行事が、霊的に真っ赤なウソ、霊的事実とはまったく相容れないということは、薄々感じていた。そして、真理という観点から統一教会に入教した私は、実のところ、信仰を始めた最初から最後まで、霊感商法についていけなかった。ターゲットとなる被害者から金を巻き上げるために(もちろん、メシヤに捧げ、人類の役にたつ浄財として捧げるという名目だが)、ニセの霊的真理で騙すということに。


そして、聖家族(教祖家庭)の堕ちた実情を知った私は、「メシヤに従って完成する」という統一教会の教義が間違っていると確信した。人間、そんな簡単に完成するはずがない、どこまでも理想を求めて伸びていく存在ではないかと思った。


そんな時に、とあるブログと出会った。統一教会を脱会して、スピリチュアリズムに出会った方の手記だった。そして、スピリチュアリズム普及会のホームページに導かれていった。


なんと言っても、地上の宗教の間違いを的確に喝破している点が痛快だった。間違った宗教というのは、正に統一教会のことだ、と思った。そして、地上でも、霊界でも、人生の目的は、どこまでも霊的成長をしていくこと。永遠に完成することはない。

中学生の頃に徹底して読んだ宮沢賢治が、「永久の未完成これ完成である」(農民芸術概論綱要より)と書いたように。

これこそ、私の理想としていたこと、これこそ求めていた真理だ、とはたと手を打った。


今まで、この世界を理想世界(ユートピア)に生み変えるための場所を模索して来た私に、最大で最後のチャンスが訪れた。スピリチュアリズムこそ、私の真に望むものであることが明確に示されたのだ。ここでこそ、本当の天国を作り上げることができる!


もちろん、統一教会時代に、先輩たちからよく言われていたように、「あと数年で天国ができるから頑張ろう!」というような、コスパ、タイパの良い天国などではなく、長い年月、何百年、何千年かかってやっと出来上がるというような、気の長い、いや苦労のしがいのある、より現実的な天国である。


だが、この地上世界だけでなく、霊界に行ってからもなお、再臨したイエスとともに理想世界建設のために働くことができるということは、なんとやりがいがあることであろうか!


私が生涯を通じて、理想世界建設を目指し人類のために働きたいと思って来たことは、もし今の私の人生が再生人生だったとしたら、生前、霊界にいた時から、自ら計画したことだったのだろうか?それとも、霊界のイエスの前に決意したことだったのだろうか?


いずれにしても、今、スピリチュアリズムに出会い、そして再臨したイエスとともに、人類のために汗を流せることほど、幸福なことはあるまい。


これから本格化する、イエスの地球人類救済計画。これほど素晴らしい天職は他にはないことだろう。




献金考ー貧乏人は天国に入れないのか?

天の時地の利人の和
▶︎ 別の日の交霊会で――

「地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることにあきれるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものはおろそかにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。

しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が“偉大な人”とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが“偉大な人”でしょうか」

「イエスもそのことを言ってますね」とメンバーの一人がマタイ伝に出てくる砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家の譬え話を持ち出した。

「そうです。またイエスは、虫にも食われず錆つくこともない天国の宝の話もしております。にもかかわらず、そのイエスへの忠誠を告白している聖職者みずからが大邸宅を構え俗世的なものを大切にしております。

皆が皆そうだと言っているのではありません。中には自分を忘れて人のためにという燃えるような情熱に駆られて奉仕活動に献身している人がそこここにいらっしゃいます」

(スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ 11章 霊的真理は不変ですより)


▶︎さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

(マタイによる福音書19章19節〜)


天国に入るのは、果たして金持ちか貧乏人か?

久しぶりにブログを更新させていただいた。今回も、私が以前信仰していた統一教会の批判を行うことにより、真の宗教とは何か考えてみたい。


私がまだ統一教会の教会員だった頃、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というマタイ伝のこの聖句を捩って、「貧乏人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と妻とよく話したものだった。

それはなぜか?

上記のマタイ伝の箇所では、金持ちは、金銭に対しての執着心が強く、他人のために自分の財産を投げ打つような自己犠牲を払うことができない人間が多い故、イエスはこう述べたのであった。つまり、物質的欲望が強く、利他愛のない人間は、神の国に入ることができないということである。


では、統一教会ではなぜ貧乏人は神の国に入ることができないのか?

統一教会では、献金プロジェクト(統一教会では、摂理と呼ぶ)の度に個人の献金ノルマの金額が決まっていて、それはかなりの高額になる。大抵、何十万、何百万という額であり、実施されて来た摂理のノルマの金額をトータルすれば、何千万という額になることだろう。それがエンドレス、つまりその摂理が次から次に、終わりなく続くものだから、山上容疑者のお母さんのように、生涯で何億もの献金をする信徒も出てくるのである。

ノルマを果たして、高額献金を達成した信徒には、賞賛の嵐が降り注ぎ、各教会や聖地の教会施設に、達成者の名前が堂々と貼り出される。しかし、未達成の者には、周りからの冷たい視線と、ノルマを達成するための激しい追求が待ち受けている。まるでどこかの生命保険会社か、自動車販売のディーラーのように、各信徒の献金実績をグラフや表にして、教会の目立つ所に掲示している教会も多い。

このように信徒の名誉心、羞恥心、悔しさ、勝ち気、妬みなどの心を巧みにくすぐって、高額献金するよう仕向けるのだ。もちろん、元々資産がある信徒の方が、献金ノルマ達成には絶対に有利だ。そして、献金目標を勝利した信徒が信仰のある人格の優れた模範信徒とされ、死後、教祖のいる天上天国に導かれ、永遠に教祖とともに幸福に暮らすようになると思われている(このあたりは既成キリスト教会の天国観と似ている)。

それ故、貧乏人は、献金ノルマが達成できず、統一教会の信徒が望む、教祖とともに暮らす天国には入れないというわけだ。


貧乏な信徒に献金させる手段

私のような学生上がりで、ろくろく手に職をつけず、献身(それまでの仕事を辞めて、教会に人生のすべてを捧げること)をした後に、中年になってからこの世の仕事に再就職した人間にとっては、はっきり言って、普段の給与だけでは高額献金のノルマの達成は困難だ。だから、教会の責任者は、私のような一般信徒に、無理に借金をさせ、ひいては自己破産させてでもノルマを達成させようと画策するのだ(因みに私は自己破産していない)。


また、教会のやり方は、目的のためには手段を選ばずで、教会責任者が、信徒個人の資産では、ノルマ達成はどう見ても無理だと判断すれば、親や親戚や知り合いの家まで押しかけさせ、お金を無心することまでさせる。


高額な献金をすればいいのか?

では、本当の献金とは、どんな献金なのか?高額な額を捧げれば捧げるほど良い献金と言えるのか?


イエスは、マルコ伝12章42〜44節で、ユダヤで最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れた女性に対し、「誰よりも多く投げ入れた」と言われた。


ここでイエスは、献金の金額が問題ではなく、真心を込めて、自分の持っている財産の精一杯を捧げることを賞賛している。


だから、いくら献金したかということではなく、神のために、そして、捧げた献金が多くの人のお役に立つようにと最大の真心を込めて行うのが本当の献金ではないだろうか。


統一教会では、献金する際、捧げた献金を聖職者がどう扱おうと、例え海にすべて投げ捨てたとしても、感謝して捧げるのが献金する信徒の正しい姿勢であると言われた。


確かに、この信仰姿勢は素晴らしいと思うが、統一教会では、献金の使い道として、教会施設の箱物の建設や、教会の幹部の中抜き(献金の横取り)が平然と行われている。これは宗教として果たしてどうなのか?建前では綺麗事を言っても、陰では汚いことを平気で行っているこのやり方。

それがいいのか悪いのかを議論せずして、信徒の信仰姿勢を云々するのは、宗教としてフェアではないと思う。一般信徒は、教会のやり方に一切口を挟むな、ということであれば、もう何も言えなくなってしまう。


まあ、この献金の件に限らず、統一教会のやり方は上意下達で、幹部たちの意のままだから、もはや議論の余地などないだろうが。


本当の宗教とは?

再度、訴えたい。献金するのが尊いのは、高額な献金をして、自分の信仰深さを誇るのではなく、より大きな存在、神に対して捧げる心、自己犠牲の心が大切であることを。

そして、その尊い心を踏みにじる教団、宗教組織に対して、強い憤りを感じるのは私だけではないだろう。

私が統一教会に疑問を抱いたのは、この献金の件も大きな一因である。

スピリチュアリズムでは、本当の宗教には、宗教組織や宗教形式(教祖、教義、儀式、布教活動、宗教的施設)は必要ない、と言い切っている。

しからば、宗教組織に従って、高額献金する必要などどこにもない。ましてや、宗教施設も不要なのだから、施設建設の資金のために献金する必要はまったくないのだ。

今ならば、宗教組織、宗教施設、そして高額献金から解放されて、真に自由に、自己の責任で霊的成長を成し遂げる信仰こそが本当の宗教だと声を大にして言える。


『ブラザーサンシスタームーン』

さて、統一教会に入信したばかりの頃、『ブラザーサンシスタームーン』という映画を視聴した。数十年前のその頃でさえ、かなり古い映像だと感じたから、相当な昔に製作された映画であろうが、この映画に妙に惹かれるものがあった。

内容は、中世のいわゆるアッシジのフランチェスコの半生を描いたものである。戦闘に疲弊して、悩んだ末に、自分の持てる物を、笑いながら家の2階から放り捨てたその姿、自らの良心の赴くまま、家を捨て、放浪の修道生活に入った彼の行動力。まさに物的欲望をかなぐり捨てて、霊性中心に生きるその生涯。その生涯すべてが私の心に刻み込んだものが、統一教会の教義よりも大きかったことは、私にとって本当に幸いであったと今更ながら感じるのである。


ヒーリング考ーニセのヒーリングと真のヒーリング

天の時地の利人の和

▶︎あなたが、ヒーリングによって治るということは、まだ霊界へ帰る時期に至っていないことを意味します。それはまた、魂の成長にとって身体の苦痛を味わうという体験が必要ではなくなったことを意味します。もとより、霊界に戻るまでに体験しなければならないことは他にもあります。肉体の苦しみだけが、地上でなすべき体験のすべてではありません。

治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、ヒーリングの体験を通して患者の魂を真の自我に目覚めさせることができるからです。病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、ヒーラーがなし得るさらに偉大な仕事は、患者の魂に感動を与え、真の自我に目覚めさせてあげることなのです。それに比べれば、身体の癒しは大して重要ではありません。

(シルバーバーチの教え(新版・下)  十九章 ヒーリングの問題、P71より)



シルバーバーチの霊訓及びスピリチュアリズム普及会の出版物からの掲載、転載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)



今回についても、旧統一教会を批判しつつ、スピリチュアリズム運動の素晴らしさを紹介したい。

なにしろ、いよいよ霊的真理による大宗教革命が本格化するからである。


清平摂理の恐怖


私が旧統一教会に所属していた2000年〜2010年頃は、清平(チョンピョン)摂理という教会内の大プロジェクトが進行していた(今でも大々的に行われているとのことだが)。


清平摂理とは、簡単に言えば、教祖が大々的に推進しているプロジェクトで、冬季オリンピックが開催された韓国の平昌(ピョンチャン)近くにある清平の地に地上天国を作ろうとする試みだ。その中心行事は、役事と言って、身体を叩いて、全身に取り憑いている悪霊を追い出したり、先祖解怨(かいおん)と言って、とんでもない金額を払って、悪霊と化した先祖の怨みを解き、人格を完成させ、絶対善霊にすることにより、地上人を病気やさまざまな悩みから解放するという癒しの技を行うものだ。こう書くと、いかにもインチキ臭く感じるのだが、当の教会員たちは真剣になって取り組み、どうやって金策するのかをいつもいつも悩んでいたのを思い出す。


今でこそ、神以外に「絶対」なんてあり得ない、「絶対善霊」なんてウソだ、と自信を持って言えるのだが、洗脳によって、理性的判断ができなくなっている教会員たちは哀れ素直に信じてしまうのである。


また、統一教会の正式な教理解説書である原理講論にも、

「地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである」と書いてある。

(光言社発行 原理講論 前編第五章 復活論P 225より、肉身・・・肉体のこと、復活・・・堕落した人間が、創造本然の状態に戻っていくようになること、協助・・・霊人たちが復活するために、地上に再臨して、地上人が使命を成し遂げられるように(霊的成長できるように)霊界から協力すること)


霊が協助する対象は、地上の子孫である。そして、悪霊となって地上人に取り憑くのは先祖の霊が多いという。それなら、そんなインチキ臭い役事や高額献金などせずに、霊的成長をする努力をすれば、霊界の先祖は悪霊から善霊になって、先祖解怨になるのではないか!と誰もが思うはずだ。


だが、当の統一教会のスタッフはそうは答えない。

「役事を受けた後に、そのままではまた悪霊が取り憑くので、霊人体(スピリチュアリズムでは霊体)を成長させる努力をしなさい」と指導する。

教義は一応守る姿勢は見せるが、何としてでも、役事を受けさせ、献金を巻き上げたいのだ。


霊感商法から清平の役事に至るまで、手を替え品を替え、人々(特に日本人)からお金を収奪しようとする小賢しい悪知恵は、本当に留まることを知らない。


本当のヒーリングとは?


さて、打って変わって、スピリチュアリズムで行われているヒーリングはどうであろうか。


先日、スピリチュアリズムの公開ヒーリングを体験して来た。

鉦や太鼓を打ち鳴らして踊りまくる統一教会の役事とはまったく違って、静かで落ち着いた雰囲気の中で、終始厳かな段取りで会は進行した。


私も、ヒーラーの方から、肩に手を当ててもらい、霊的エネルギーを注入していただいた。ヒーラーが身体に触れた瞬間から、身体が火照るように暖かくなるのをハッキリと感じた。こんな感覚は今までにないことだった。


私は現在、特に身体の悪い所はないので、「痛みがなくなりました」とか、「持病が治りました!」ということはないが、この癒しの技を受けるのに、一切金銭のやり取りはない。「あなたの病気は治りますが、そのためには〇〇万円が必要です」とか、私以外、持病持ちの人さえ対価を要求されて受けているわけではない。


統一教会の清平役事、先祖解怨はもちろん、一般のヒーリングも高額の代金支払いがあるというのに、一切合切タダとは、これが本当のヒーリングなのか。


そう言えば、新約聖書に出てくるイエスの癒しの技も、お金を払って癒やしてもらったとは書かれていない。


病気が治るだけではダメ


冒頭のシルバーバーチの言葉にも、「患者の魂に感動を与え、真の自我に目覚めさせてあげることなのです」とある。

つまり、病気が治ることよりも、魂が覚醒して、霊的真理を受け入れ、真理に基づく新たな人生を出発するようになることが大切なのだ。

そこには、金儲けや、自分の利益のために他人を利用してやろうなどとする意図は微塵もない。


まさに高級霊からの地上人への贈り物、とは言えないだろうか。


ここにも、徹底した霊的成長至上主義の姿勢が如実に示されていると言える。