天地のブログ

日常の何気ない出来事からスピリチュアルな内容を探ります。

病床に臥して その2

▶︎苦悶と病苦と悲哀を体験した人間は、他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するようになります。やりたい放題の人生を送り、はかない幻を追い求めている魂は、いつかは真実に直面しなければならなくなります。安楽な日々を送っている人を見て羨ましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にあっても霊界にあっても人間は、ありとあらゆる体験を積まねばならないようになっています。いかなる体験にも必ず学ぶべき教訓があります。あらゆる体験を乗り越えて初めて本当の自我を確立し、魂の内奥の完全性に至ることが許されるようになるのです。

それは確かに難しいことです。難しくないはずがありません。簡単に聖人や殉教者になれるでしょうか。簡単に宗教指導者や社会革命家になれるでしょうか。簡単になれるはずがありません。自己の責任から逃れようとするような人間に、人を導く資格はありません。

(シルバーバーチの教え・上 第十章 P 181)



入院後、ヒマを持て余していることもあって、前回に続き、病床で感じていることなどを綴らせていただく。


いよいよ手術日当日になった。身体の一部を切られると思うと、緊張するし、やはり少し恐い気がする。が、覚悟を決めて手術室に入り、口にマスクを当てられた瞬間に遠い世界に誘われた。


意識が戻ると、すぐに手術が無事に終了したことがわかった。すると、今まで入院や手術に携わってくださり、お世話になった方たちへの感謝の思いがどっと溢れて来て、一筋涙が流れた。

そして、ほとんど同時に、私が今置かれている困難以上にもっと苦しんでいる人たちに、今度は私が尽くしていこうという決意が滲み出て来た。


それは不思議な感覚だった。自分の思いが自分の思いではないような、今までにない経験だ。


私の内に、このようなものを感じるだけの奉仕の心、愛の心などあるはずがない。きっと、背後で見守っている、守護霊や指導霊の方たちの導きのお陰なのだろうと感じた。


人間は眠っている間に霊界を訪れているというシルバーバーチの言葉だが、私も寝ている時に、幽界の下層を訪れて、苦しんでいる人たちを助けてみたいし、実際に肉体がなくなって、霊界に行った時も、そういう仕事に携わりたいとは思っている。


しかし、この物質世界にいようと、霊界に行こうと、自分にそんなことができるだろうか。そこまで人に尽くしていけるだけの愛が。


話は変わり、またしても家庭連合(旧統一教会)の話になって恐縮だが、少し我慢して読んでいただきたい。「みことば」と言って、教会の教主様の語る言葉を今まで散々聞かされて来たが、教主様の有難いお言葉よりももっと印象に残っている言葉がある。


それは、私の家族から、信仰のことで突き上げられ、このまま信仰を続けていくかどうか悩んでいた時に、ある先輩から、

「君が頑張らなかったら、君よりもっと苦しんでいる人はどうなってしまうんだ?」

と声をかけられて、愕然としたことがあった。


今ではほとんどの「みことば」は忘れてしまっているが、この先輩の言葉だけは忘れたことがなかった。どんな困難な時でも前進する力と勇気を私に与えてくれたからだ。


苦しい時、悲しい時、悩んでいる時、傷ついている時、周りに配慮するのはとても難しいことかもしれない。しかし、冷静に考えてみると、世界にはもっと苦難の只中で喘いでいる人たちがいるかもしれない。

私が頑張れば、そういった人たちにも力と勇気が与えられるとすれば、私の苦しみは私だけの苦しみではなく、世界を変えられるだけの大きな経験となるのではなかろうか。


こんな自分に何ができるのだ?と思うこともあるが、イエスの再臨によって、史上最大級の霊的力が、現在この物質世界に及んでいるという。それならば、人類救済運動に携わる高級霊の方たちとともに歩む、というよりも高級霊の道具となれば、こんな私にも何かできるのでは?と感じる。


今経験させていただいていることに感謝しながら(悪いカルマを切る、あるいは霊的進化につながるといった点でも)、イエスの再臨とともに急速に進んでいる人類救済運動に、わずかながらでも貢献していきたいものである。



病床に臥して

▶︎大霊の摂理に一致した生き方をしているかぎり、克服できないような困難は生じないということを知らなければなりません。遭遇している困難や障害が取り除かれてしかるべきものであるなら、私たちの力で排除できないものはありません。

もしも苦しみが余りにも耐えがたく思われるときには、こう理解してください。私たち霊界の者は、あなた方の苦しみを取り除くために自分自身の進化の歩みを止めて努力します。しかしあなた方としては、その苦しみに耐え抜き、辛い体験を通して教訓を学び取る方が賢明であるということです。この短い地上人生のことだけを考えてはいけません。永遠の生命を視野におくことです。


(中略)


悲哀の極みをなめ尽くして初めて、魂の奥底からの喜びが味わえるのです。生命の階段を低く下りるほど、それだけ高く上がれるのです。地上人生の陰と思える体験を重ねるほど、日向の喜びがひとしお身に沁みるようになるのです。

すべてのことが霊性進化の肥やしになります。そのうち皆さんも、肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上人生を振り返るときがまいります。その時、紆余曲折した出来事の中で、それらの一つひとつがちゃんとした意味を持ち、すべての体験が皆さんの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出すことになっていたことを理解するようになるはずです。

魂にとって、正しく理解し正々堂々と立ち向かって何の益ももたらさないような体験は一つもありません。いったい、困難も試練も問題もない物質世界というものが想像できるでしょうか。そうした世界では何の進化も得られません。克服すべきものが何もないからです。あるのは堕落のみです。

(シルバーバーチの教え・上 六章 すべてを支配する神の摂理より)



今大学病院のベッドに横たわってこの記事を書いている。

入院して二日目。病名は舌がん(扁平上皮がん)だ。ごく初期の段階なので、命に関わることはなさそうだが、やはり「がん」という言葉の響きを聞くと、少なからずショックを受けるものだ。


スピリチュアリズムに関わるようになって一年余。死への恐怖はなくなったが、実際今死んでしまったら、残された家族はどうなるのか。初期だからいいようなものの、もし末期がんだったら、自分も周りももっと深刻になることだろう。子どもの養育、年老いた親の面倒など、懸念事項が山ほどある。

「自分はあの世に行っても構わない」と言ったら、家内から「あんたはいいけれど、残された私たちはどうしてくれるの?」と言い返されそうだ。


ただ、覚悟はできている。この地上界にいようと、霊界に行こうと、今いる環境でベストを尽くす。いつもそう思っている。


困難に直面すると、普段隠れていたものが見えるようになってくる。自分の周りの人たちの反応を見ていると、いつもと違って、こんなことを考えていたのか!と新たな発見があって面白い。特段命に別条はないのだが、それでもさまざまなことまで心配してくれる人。この際、仕事の心配などしないで、思いっきり休養を取ったらいい、という人。私が職場を休むことになって、仕事が滞り、状況が大変になることに対して、陰で不平を言っている人(実際周りに迷惑をかけるのだから、当然と言えば当然だが)。反応はさまざまだ。


でも、自分に対して優しい言葉であれ、厳しい言葉であれ、すべてありのままを受け止めようと思う。

そして、現実に霊界に行く時、そのまま持って行こうと思う。


何事も経験だ。生きていても健康であればこんな経験はしないだろうし、恐らく病気で苦しんでいる人たちのことなどわからないかもしれない。苦労している人たちに同情はしてあげても、本当の意味でその人たちの気持ちには寄り添えないかもしれないのである。

それを思えば感謝である。どんなことでも経験することに無意味なことはないのではなかろうか。

困難な時にどう対応するのか?そういう時にこそ人間の真価が問われると思う。


シルバーバーチの言葉によると、人間は新たな経験を求めて地上に再生するらしい。もちろん再生する理由はそれだけではないのだが、今この瞬間の経験が、永遠の人生から見た時にとても貴重なものであるかもしれない。


また、こうして病院のベッドで一文一文綴っていると、同様の病気で苦しんでいる人たちに、少しでも希望の光を届けられないものかとも思う。


私たちは、例え今の命がなくなったとしても、それですべてが終わるわけではない。霊界で永遠に生き続けられるのだ。むしろ、霊界に入ってからの方が遥かに長い。それを思えば、現在の困難に落胆はできないだろうし、今この時をもっと大切に生きられるはずである。

大丈夫。余命が短くとも、我々人間は死んでからこそ本当に生きるのだから。そして、霊界に行ってからの方がもっと幸せに生きられるのだから。


シルバーバーチは、愛する人に先立たれた女性が、自ら命を絶つことは許されるかという質問に対して、それは許されないと答えた。その女性はそれを聞いた瞬間には、暗澹たる気持ちになったそうだが、やがて、残された地上人生を力強く生きていこうという心境に変わったそうだ。


例えどんな境遇にあろうと、自らの手で命を絶ってはいけないし、悲観してはいけない。我々には、やがて来るべき素晴らしい霊界での人生が確約されているのだから。それを思えば、期待と喜びに胸躍らせるくらいでないとおかしいということになる。

もともと、現在の再生人生の前に、このような困難が降りかかることがわかって、覚悟して再生して来たということだ。それを思えば、現在の境遇に文句は一切言えない。


むしろ考えなければいけないのは、後悔する人生を送ってしまったかどうかだ。もし後悔する人生を送ってしまったのなら、死後、ある期間懺悔する非常に苦しい時間を持たなければならないらしい。そのことは、最近のスピリチュアリズム・インフォメーション48号に掲載されている、シルバーバーチの交霊会で重要な任務に携わった方たちの霊界のメッセージに示されている。

そこには、彼らが、実践することが真の救済である、と証言していることが記されている。


実践することは、信ずることよりももっと難しい。


前回でも書いたが、イエスは正に現在、この地球上に再臨している。その再臨のイエスとともに、地球人類救済計画の一端でも担えることが、どれだけ素晴らしいことかを実感しながら、真のスピリチュアリストとなるべく、霊的真理を実践していきたいものである。


個人崇拝による天国はありか?


▶︎そこに私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることも裏切ることもないからです。


(中略)

ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。
(シルバーバーチの教え・上 八章 地上の宗教の間違いより)


さて、いきなり衝撃の真実をお話ししよう。イエスが再臨したということである!

キリスト教では、十字架で亡くなられたイエスがいつか再臨して、悪に塗れたこの世を救ってくれるということが信じられて来た。
それは、天使のラッパの音とともに、再臨のイエスが出現し、イエスをキリストと信じている人々は携挙と言って、空中に引き揚げられ、そこでイエスと会うことになる。そして、栄化体という、老いることも、死ぬこともない不死身の体になり、天国で永遠にイエスと暮らすというのである。
しかし、クリスチャンでもない、信仰もしていない一般人からしたら、再臨?イエス?二千年前に生きていた人間が?何を荒唐無稽なことを!と思うに違いないのである。
そんな、非クリスチャンからしたらとても考えられないようなイエスの再臨は、何よりイエスは三位一体の神そのもの、という絶対的な崇拝対象であるからこそ可能となるのである。


イエスは我々人間とはまったく違う神そのものだった?果たして本当にそうなのか。もし我々が二千年前のユダヤに生きていて、存命中のイエスと出会ったなら、「この方こそまさしく生ける神である!」と人目も憚らず、大声で叫んだのか?
確かに、イエスが十字架上で息を引き取った時に人々は証言した。

「百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。」
(日本聖書協会 1954年改訳 マタイによる福音書第二十七章五十四節より)


それほどまでの奇蹟を彼らは見たに違いない。加えて、聖人と呼ぶにふさわしい、愛に溢れた生前のイエスの行跡を見て、「この方こそ生ける神の子キリストである!」と思ったとしても何ら不思議でないほどの人格の持ち主であったのだろう。

だが、冒頭のシルバーバーチの言葉には、個人崇拝を厳しく諌める言葉が綴られている。例えそれがキリストと崇められて来たイエスであっても、だ。
生前まったく認められることのなかったイエスが、長い時を経て、信仰の対象となっていったのは、既に亡くなっていたからという理由もあるだろう。死んだ人間は、生身の人間と違って、生々しい喜怒哀楽もない。目につく欠点や嫌がられる癖もない。本人の嘘偽りのない人となりがわからないだけ、神格化しやすい。

シルバーバーチは別のところで、イエスの意外な一面に言及している。
メソジスト派の青年牧師と論争をした箇所で、イエスが怒って、宮の庭で商売をしている人を追い出したり、両替人の台をひっくり返したこと(マタイ福音書第二十一章中で、宮きよめ事件と呼ばれている)について、イエスも人間的要素を持った、あくまで一人の人間であったと言っているのである。
そんな一人の人間を、神々しい、誰よりも優れている、人間離れしている、あるいは生き神のようだ、といったような形容詞を使って、神の座に祀り上げて良いものだろうか?

話は変わるが、まだ私が家庭連合(旧統一教会)の信仰を持っていた頃、誰かがこんなことを囁いていた。
「北朝鮮は長らく地上の楽園と目されて来たが、それが幻想だったことが証明された。だけど、北朝鮮のトップである金正恩の首をすげ替えたら、楽園が実現するよ」
それはつまり、北朝鮮の金正恩を中心として韓国(朝鮮)統一を達成するのではなくて、家庭連合の文氏夫妻によって韓国統一が達成されれば、今の北朝鮮のような、民衆にとって地獄のような国ではなく、誰もが幸福になれる天国ができるということである。当時信仰を持っていた私としては、即答で「そうだ!」と答えそうなものだが、本当にそうなるのか、しばらく考え込んでしまった。

果たしてそう簡単にいくものなのか?たった少人数の優秀な人間が国を支配し、その人間にすべての人民が服従すれば、理想の国家ができあがるのだろうか?

歴史上、独裁者による独裁国家は数知れずあったことだろう。その典型がヒトラーのドイツ第三帝国であり、スターリンのソ連邦である。
そして、その延長上に、現在の北朝鮮があると言っても良いのではないか。
どの国も人民を恐怖によって支配する構図が完璧に出来上がっていた。しかし、その国が天国であったなどと思う人間は誰一人としていないであろう。

もちろん、その対極にあるはずの現在の民主主義体制も、理想の国だとは言えない。むしろ、混乱と無秩序に終始する民主主義よりも、少数のエリートによる政治に期待する世論が醸成されて来ても不思議ではないくらい、現在の世界は退廃していると感じている人は多い。だが、歴史的に、一人の生ける神ともいうべき人物にすべてを任せ、その他の愚かな人民は、その一人に従って行けば、すべてうまくいくというような考えは、現在に至るまで出現しては消えて来た。

紀元前のユダヤ王国のメシヤ待望論(現代のユダヤ人もそうかも知れないが)、イエスの再臨も宗教的に言えばそうだ。ファンダメンタルなクリスチャンは今でももちろんイエスの再臨を信じている。

話は元に戻る。そのイエスが地上に再臨したのだ。だが、クリスチャンたちの期待とは違い、あくまでも「霊的」に再臨したというのだ。
そのイエスにでさえ、絶対的に崇拝するのは間違っている、とシルバーバーチは言う。
では、再臨したイエスに我々はどのように対応していけば良いのか?

イエスが人類救済の使命を帯びて、地上に再臨したのであれば、同じ使命を持って生きている我々の同志ということになるし、二千年前からスピリチュアリズム運動に携わっている我々の先輩ということになる。
一人の独裁が認められず、我々の自主性が重んじられる以上、イエスと同じ方向を向いて、今できる精一杯を一歩一歩積み上げて、目標に向かって進むしかないではないか。

いずれにしても、一人の人間によって即席にできる天国などなく、人類救済に向かう我々の不断の努力の中に、理想とする新しい国が見えてくることであろう。


イエスの再臨に期待と喜びを感じると同時に、千載一遇の瞬間に立ち会っている我々の責任の重さを実感するものである。