人生いかに生きるべきか
▶︎「世俗から離れた生活は心霊能力の開発には好都合で、その意味ではよいことと言えるでしょう。が、私の考えでは、世俗の中で生活しつつしかも世俗から超然とした生き方をする方がはるかに上です。つまり努力と忍耐と向上を通して自己を確立したのちに、大霊から授かった能力を同胞のために役立てるのが、より良い生き方なのです。」
(シルバーバーチの教え・下 十四章 霊界通信の難しさ P21)
人生いかに生きるべきかーこれほど重いテーマはあるまい。
歴史上、多くの宗教家、哲学者、思想家などが人生の意味を論じて来たが、最終的な結論を出すに至ってはいない。
人生には答えがないからいいのだという意見もあるだろう。また、どう生きるかなど考えず、時流に合わせて生きればそれでいい、という人もいることだろう。
だが、一度しかない人生、真剣に考え、悩み、自分としての結論を出してみるべきではなかろうか?
私は子どもの頃から、人として正しい生き方というものはどのようなものかということを一貫して追求して来た。そして小学校から中学校にかけての時期に、遂に自分の人生の理想像を見出した。
それが宮沢賢治の『雨ニモマケズ』である。
その発見により、今に至るまでずっと宮沢賢治の哲学がずっと心の片隅に存在し続けた。
少し長いが、『雨ニモマケズ』を引用してみたい。
雨ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無行菩薩
末尾の7行にあるように、宮沢賢治は法華経の行者である。私は芸術と信仰と奉仕に一生を捧げた稀有の魂に、幼いながらも尊敬の念を持ったものである。
しかし、『雨ニモマケズ』のような純粋で一途な無我の境地に至ることは並大抵ではない。飽くまで一つの理想としての憧れであった。
先程述べたように、その後も、私の心のどこかにこの詩はあり続け、陰に陽に私の生に影響を与え続けた。家庭連合(旧統一教会)の信仰を棄教することができたのも、自分でも気づかないうちに、家庭連合の信仰原理以上に、この詩の世界観が魂に染み付いていたからではなかろうか?
少なくとも、この詩にある究極にまで自らを謙遜して他のために尽くす生き方は、家庭連合の主要な幹部の本当の姿とは180°異なっていると言える。
徹底的な無我の境地の奉仕ースピチュアリズムでは、本当の宗教とは利他愛の実践にあると言うが、まさしくその最も純粋な形がここにある。
私はよく登山(と言っても山歩きというのが正解かも知れない)をするが、九州には、修験の山が多い。修験と言うと、山の中に籠って荒行を行い、俗世と一線を画した生活をするいった印象が強い。
が、本当の修験とは、厳しい修行で得たものを民間で実践することにあると言う。山中での行に集中して、悪く言えば自己満足のみに終始するだけでなく、衆生の間に下りて施行しなくてはいけない。
冒頭のシルバーバーチの言葉と一致する。
このようなストイックな生き方というのは、今の時代、旧態依然とした遺物なのかもしれない。
しかし、シルバーバーチは、何を信じているかが問題ではなく、どう行動するかが問題だと言う。
決して華やかではないが、修道の生活をして自己を確立した後に、大霊の資質を顕現すべく、人のお役に立つ生き方もいいものではないか。
このような生き方が本当に人として正しい生き方かどうかは、死後の世界、つまりは霊界があるかどうかによっても決まって来る。もし霊界などないのであれば、利己的で刹那的な生き方をしても、誰にも文句を言われる筋合いはない。
しかし、本当に霊界があるのであれば・・・・・
いい加減に生きることなどできなくなってしまう。
次回はこの霊界について考えてみたい。
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