まず神の国と義を求めなさい
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイによる福音書6章33節~34節)
▶︎そうした状況をイエスが喜ばれると思いますか。あのような施設に住み、辛い労働を強いられ、わずかな賃金しか得られない人々がいる一方で、お金にまったく不自由しない人々がいるのです。それなのにイエスは、カレンダーのことなどに関わっていられると思いますか。あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、どうでもいいカレンダーのことや大聖堂のための資金やバイブルのことに関わっていられるとでも思われますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と呼ばれているこの国に、そんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンはいったいどのように考えているのでしょうか。
(シルバーバーチの教え(新版・下) 二十一章 P 138・139)
(シルバーバーチの霊訓の掲載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)
新約聖書にはリアルなイエスの姿が描かれていないというのが、現在の聖書批評学における到達点である。だが、聖書の中にはまったくイエスの言動、人となりなどの生きたイエスを見い出すことはできないのだろうか。
「スピリチュアリズムの思想Ⅱ」の中で、後世によって改ざんされ、真実でない内容を追加された新約聖書であっても、シルバーバーチが語っている「利他愛」に関する記述に関しては、真実のイエスを伝えているとある。
(スピリチュアリズムの思想Ⅱー(7)聖書に見る利他愛の教えより)
ということは、利他愛の教えを広め、「霊的同胞世界」を実現させようとした冒頭の聖句は、イエスが現実に語ったものと考えていいだろう。
この聖句は私の好きな聖句でもある。
「神の国」とは、正しく霊的同胞世界であり、「神の義」とは、摂理のことである。
普段の生活の中で、私たちはどれだけ霊的同胞世界の実現を求めて来たのだろうか。また、摂理に沿った生活を心がけて来たのだろうか。
これは生活を「霊主肉従」にするということでもある。
人がどうのこうのいうことではない。自分の胸に手を当てて、静かに振り返ってみることである。
肉体という硬い殻に覆われた我々は、気を抜けば、すぐにいつでも肉主霊従に陥ってしまう弱い存在である。その殻を破って、私たちの内奥で眠っている霊をどれだけ顕現させたのか?
簡単なことではない。どれだけの修験者がこの壁に挑み、その度に壁にはね返され、あえなく肉的欲望の餌食になって行ったことか。
正しい霊主肉従は、利他愛という結果をもたらす。
しかし、教会は利他愛という崇高な理想を我々にほとんど示さず、荘厳な建築物、この世に君臨する恐るべき権威、何者によっても崩されることのない巨大なヒエラルキーを築き上げた。
(旧統一教会も、ご多分に漏れず韓国の清平に一大王国を築き上げているではないか!)
宗教という、本来霊主肉従の実現に最も貢献すべき存在が、物質中心主義の権化とも言うべき哀れな存在に堕している現実に、シルバーバーチはこれほどまでに舌鋒鋭く非難しているのである。
最も現在に於いては、キリスト教、その他の宗教についても一定の社会貢献、社会福祉活動をしていることは紛れもない事実である。だが、宗教とはサービス(奉仕)である、と断言しているシルバーバーチが望んでいるほどの利他愛を示しているのかどうか。
キリスト教について言えば、パウロ神学とも呼ばれる信仰義認説に立った教義を中心とした現状で、「神の国」建設のための力強い推進力となれるとは到底思えない。
「信ずれば救われる」では、霊的同胞世界の実現は夢のまた夢なのである。キリスト教の世界化から二千年近く経過した今でも、理想世界はどこにも見えない現実がそれを示している。
ところで、この聖句の中で出てくる「これらのもの」というのは、この聖句の前の31節「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」を指している。
現在の日本は、余程のことがない限り、衣食住の心配をしなくても十分生きていける。人間としての最低限の生活は保障されているのだ。
それなのに、必要以上にそれらを求め、「肉主霊従」に陥っている現代の風潮に警鐘を鳴らしたいものである。
今こそ摂理に沿った人生を歩み、利他愛こそ理想実現のためのキーポイントだと世に示すことだ。そのために、霊的真理は大いに貢献することだろう。
今年も、再臨のイエスとともに「神の国」建設を目指して進んでいこう。
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