▶︎神への接近によって増大する喜びと幸福
この終わりのない霊性進化の歩みの中で、一歩ずつ究極の理想である神に近づくごとに、人間はそれまで味わったことのない喜びと幸福感を体験するようになります。神に一歩近づくことによって、その分だけより多くの神の愛を受けられるようになるからです。したがって人間にとって“永遠の霊性進化の道”とは――「少しずつ神に近づき、それにつれて喜びと幸福感を増大させていく歩みである」ということになります。
地上においても霊界においても、人間が存在している目的は、究極の理想である神に近づくことです。それは限りない霊的成長・霊性進化の道のりであり、神との愛の絆を深めていく歩みなのです。
(スピリチュアリズム普及会ホームページ スピリチュアリズムの思想[Ⅱ] 1.神について (7)スピリチュアリズムが明らかにした神観のポイント より)
▶︎「地上にはこれまであまりに永い間、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教が最も大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかり行ってきました。神の子等を一つに結びつけることに失敗しております。」
(シルバーバーチの霊訓 潮文社 P 216〜217)
(シルバーバーチの霊訓及びスピリチュアリズム普及会の出版物からの掲載、転載については、スピリチュアリズム普及会から了承を得ています)
本来宗教は、人間を霊主肉従の状態に導き、利他愛の実践に励むように努めることを教えるという役割を果たさねばならない。
しかし、現実の宗教はどうであろうか。私が所属していた家庭連合(旧統一教会)について、振り返って考えてみたい。
霊感商法が、霊的真理に照らして、明らかに間違っている論法で、多くの人を騙すことによって、人々を旧統一教会の信徒たちのいる仮想天国に引き入れることになった。
旧統一教会の教義上、人生の目的は、三大祝福の成就、つまり個性完成(人格の完成)、子女繁殖(家庭完成)、万物主管(環境の愛による支配)になっているはずであるが、その一番重要と思われること以上に、教祖への服従を重要視することによって、霊的真理で言うところの、霊的成長を阻害していることにまったく気がついていない。
教祖が立てた摂理(スピリチュアリズムの摂理とは意味が違う)を成功させるべく目標を達成するために、なりふり構わぬ行動を起こす。
人を騙そうが、一家が破産しようが、目標の数字を達成し、教祖を喜ばせることが最高善となる。教義は見せかけの、形式だけの論理である。
霊感商法だけでなく、その後も同様なことが続いた。旧統一教会では、信仰の訓練と称して、万物復帰、つまり訪問販売がよく行われる。というか、教会員であれば必ず通過する登竜門である。
この万物復帰、マイクロと名前がつけられているが、実際はワゴン車に乗り込んで(当初は本当にマイクロバスだったそうだが)、何ヶ月も移動しながらセールスをして、5、6人で車内で生活をする。そこでもやはり目標が掲げられる。おおよその目安として、一日中活動をして3K(3万円)復帰(販売)すれば合格という基準だ。販売する物は、珍味、ハンカチ、コーヒーなど様々である。物を介さず、純粋に募金ということでも行われる。
私と言えば、いつも落第点しか与えられない失格セールスマンであった。ある時は、コーヒーを販売し始め、1週間一つも売れず、七日目の最後の最後、やっと一つ売れたということもあった。その間、泣きたくなることも何度もあったし、もうやめようと思ったこともある。
全体を通して、1ヶ月の1日あたりの売り上げの平均は、0万円台から1万円台という体たらくであった。
マイクロでコーヒー販売をしていた時のことであった。あまりにも売れないので、その日は雨の中、「どうして売れないのでしょうか?」と祈りながら懸命に活動をしていた。それにもかかわらず、相変わらずまったく売れずにいたが、夕方ある家の前で、「お前は何のためにやっているのか!この地域の人のためにやっているのではないのか!」という強烈な、言葉にもならないような思いが私に浴びせられた。
私は一瞬で今までの歩みを反省した。今まで自分は何をやって来たんだろう。
その家で売れたことはもちろん、その後もコンスタントに販売できた。
だが、売れた売れないが問題ではない。旧統一教会では目標を各自に立てさせ、目標を達成できない時は、激しい追求をされる(その点では、一般の営業職と変わらないが)。その延長線上で、より多く販売するために、いろいろな方策が考え出された。
例えば、土下座トークとか、身障者の演技をして御涙頂戴トークである。まさに、旧統一教会が共産党に浴びせた批判、「目的のためなら手段を選ばず」をそのままお返ししたいほどのやり方である。
この強烈な体験、旧統一教会では神体験と呼んでいたが(恐らく神直接ではなく、背後霊からの指導であろうが)、この体験通りに、本当にその地域の人たちのことを考えているのなら、土下座やら、演技、あるいはウソ、法外な値段による販売などするはずがない。
獲得した売上金の使途も問題である。会社の新人研修と言って、珍味を販売することはそこまで問題にはならないかもしれないが(もちろん新人研修というのは、ウソであるが)、アフリカへの支援とトークするコーヒー販売は、売り上げのほんの一部しか支援に回されないし(その支援金もIRFFという統一教会系のNGOに送られるので、どこまでアフリカの人たちの役に立っているのか不明)、ましてや、物を介さない募金運動は、まったく支援に回されない。100%旧統一教会のお金になるのである。
1990年代から始まった清平の先祖解怨もそうである。霊的真理とはまったくかけ離れたものであることはすぐにわかるが、旧統一教会の教義である統一原理とも相容れないことも自明であるのにもかかわらず、今の今までずっと続いて来ている。
統一原理の復活論では、霊人の復活(霊的真理では霊的成長にあたる)は、その後孫の地上人が愛を復帰(つまり利他愛の実践)し、霊人体を成長させれば、それに伴って先祖も復活すると説いているにもかかわらず、実際には高額献金をして、役事(身体を叩いて、悪霊を追い出す、按手とも)すれば先祖が解怨され、復活すると言っている。
これは明らかな矛盾である。以前そのことを、ある教会長は、献金をして役事してから愛を復帰すればいい、という理由にもならない苦しい言い訳をしていた。
だが、献金やら役事などしなくても、利他愛を実践すれば霊的成長はできるのである。
どう見ても献金を獲得するための方便としか考えられないではないか。
ただ献金をしなさい、と言うだけでは、さすがに教祖のためとはいえ、難しい。そこで、霊界で苦しんでいる先祖を救うという名目でアメを与えれば、喜んで献金するだろうという目論見だろう。
まさに「宗教の観点から見たスピリチュアリズムの全体像」に出てくる「教団に都合の良い人工的教義」である。
これは私が所属していた旧統一教会のことであるが、他の地上の宗教団体でも同様であるだろう。
教義では、心、精神の大切さ、人のお役に立つことの大切さを説きながら、理屈をこねて、実際は教祖、教団に絶対的に帰依させるべく、献金、活動に生活を捧げさせる。そこでは、個人の霊的成長など、ハッキリ言って後回し、もっと端的に言えばどうでもいいことになる。
霊的成長に関しての内容を教義に盛り込むなら、絶対的に中途半端であってはならない。中途半端であれば、いつか形骸化して、地上で優勢な物質中心主義、利己主義に飲み込まれてしまうことは明白である。
今こそスピリチュアリストたちは地上の宗教に対して、強く宣言せねばならない。
「霊的成長こそすべて」と。